【断片から見た世界】『告白』を読む 「根源」の近くにとどまり続けること

私たちの時代の哲学は「存在の根源」なるものについて、どのように考えるべきか?

「太陽の比喩」を通してプラトンが語り出そうとしていたのは、万物の起源に位置する〈善〉とは、すべてのものに存在を与えるところの「存在の根源」でもあるということに他なりませんでした。

「『ぼくの思うには、太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるというはたらきを与えるだけではなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあると、君は言うだろうーただし、それ自分がそのまま生成ではないけれども』『ええ、むろん生成ではありません』『それなら同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない……。』」

〈善〉に対するこのような見方は果たして、2023年の現在を生きている私たちにとってどのような意味を持つものなのでしょうか。今回の記事では、プラトンの『国家』から新プラトン主義へ、そしてアウグスティヌスの『告白』へと向かっていった哲学の歴史の運命をこの後にたどり直すことを念頭に置きつつ、この点をめぐって考えてみることにします。

マザー・テレサの言葉から

少し唐突ではありますが、20世紀を生きた女性であるマザー・テレサは、次のような言葉を残しています。

マザー・テレサの言葉:
「私たちは神あってこそ生き、行動し、存在するのです。すべて生存するものに命を与えるのは神です。すべてのものに力と存在を与えるのは神です。けれども、神が現存し支えていてくださらなければ、すべてのものはなくなり、完全な無に帰してしまうのです。」

マザー・テレサは理論よりも、実践そのものに生きた人でした。「貧しいものの中でも、最も貧しいもののために生きる」という自分自身の使命のために彼女が何をしたかということに関しては今日に至るまで、数多くのことが語られています。しかしながら、ここで改めて考えてみたいのは、彼女が実践したことそのものというよりも、彼女の行いそのものを奥底から突き動かしていた、彼女自身の〈生のヴィジョン〉についてです。

すべてのものに力と存在を与えるのは、神である。このような彼女の言葉は、『国家』の言葉に耳を傾けることを通してプラトン哲学の最内奥のモメントに突き当たりつつある私たちにとっても、無視することのできない意味を持つものであると言えるのではないか。なぜなら、すでに何度か触れたように、哲学の歴史においては、プラトンが垣間見た〈善〉が新プラトン主義の哲学によって〈一者〉として受け継がれ、その後にはキリスト教の哲学によって〈神〉の思索として継承されていったことを、私たちは知っているからです。マザー・テレサを育てたのは、その起源は少しずつ忘却されていったとはいえ、本当はこうした時の流れを経ることによって次第に堅固なものとされつつ受け渡されていった精神的土壌にほかなりませんでした。

「すべてのものに力と存在を与えるのは、神です。けれども、神が現存し支えていてくださらなければ、すべてのものはなくなり、完全な無に帰してしまうのです。」マザー・テレサが抱いている存在感覚はいわば、ここで語られている言葉において一つの頂点を覗かせていると言うこともできるかもしれません。「存在の根源」そのものである神がもし存在しないならば、私たち自身もまた無に帰するであろう。彼女が語る言葉は誰にでも理解できる、きわめて素朴なものでありながら、「私たちの一人一人が存在する」という驚くべき事実の核心にも突き当たるものであると言えるのではないか。

「存在の根源」をめぐる問いかけは今日、どうなっているのか

問い:
人間にとって、「存在の根源」から切り離された場所において、本当の意味で人間らしい生を送ることは可能なのだろうか?

マザー・テレサは古代や中世を生きていた人ではなく、今から三十年前にはまだこの地上で活動を行っていた同時代人の一人に他なりませんでした。上に掲げた問いは、幾分かは耳慣れないもののようにも響くことは確かだとしても、2023年の現在を生きている私たちにとっても、なおそのアクチュアリティを失っていないと言えるのではないか。

「私たちはひょっとしたら、生まれてくるべきではなかったのではないだろうか。」このような問いかけが現代の人間の心において次第に前景へと浮かび上がりつつあることは、今日、さまざまな兆候の形をとって表れてきています。故郷喪失の最終段階へと絶えず向かい続けてゆくことが現代という時代の本質に属するのだとすれば、その現代が反出生主義的な時代として立ち現れてくることは、ほとんど不可避の事態であると言えるのではないか。「ただ、意味もなく存在している」のうちに閉じ込められた思考には、生きることの意味を見出だすことができるのだろうか。「存在の根源」のようなものについて思索することは今日、極度の困難のうちに置かれているように見えますが、このことには、決して偶然とは言うことのできない歴史的な運命が関わっているものと思われます(「哲学の営みは、おのれ自身の時代のあり方を奥底から突き動かしている根本動向にこそ目を向けようと努め続けるのでなければならない」)。

ここで論じているような問題に対しては、およそただちに用意することのできる答えなどは存在しないことは間違いなさそうです。しかし、この問題が単に理論上の問題にとどまることなく、問う人間一人ひとりの実存を通してこそ問われてゆくといった性質のものであることは、いずれにせよ確かなことであると言えるのではないだろうか。問いを問うことは、その核心においては、問う人間がおのれ自身の心のあり方を問うことと深いところで重なり合うのではないか。

マザー・テレサは、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛すること」という自分自身に与えられた使命に対して忠実であり続けようとした人でした。その彼女にとって、〈善〉そのものである「存在の根源」の近くにとどまり続けること、〈愛〉のうちに身を置き続けることは、彼女自身の生に課された最も切実な要求に他ならなかったと言うこともできるかもしれません。哲学する人間が自分自身の生き方そのものを問いただしつつ、自らの「最も固有な存在可能」へと近づいてゆこうとするその仮借のない試みのうちでこそ、「存在の根源」のような何物かについて思索することの必要性、あるいは不必要性に関してもまた決定が下されるのではないか。私たちには、「私たちはなぜ存在するのか?」という問いを問うことなしに真実な生に到達することが、果たして可能なのだろうか。問いを問うことが、その問いを問うている自分自身をも問いに付すことを必然的に伴うのであるならば、哲学の営みそのものにとっての一つの全き運命であるところの「存在の問い」に関しては、以上のような帰結と問いかけとを回避することはできないのではないかと思われます。

おわりに

「愛には偽りがあってはなりません」と信仰の書は語っていますが、この要求に対して身をもって応答することには常に多大な困難が伴うことは確かであるとしても、人間が何らかの仕方で真実な生き方へと向かおうとする際には、この要求に向き合うことを通して自分自身の実存のあり方が問われることは必然的であると言えるのかもしれません。ともあれ、私たちとしてはプラトンのテクストの方へと再び立ち戻りつつ、『告白』を根源的な仕方で経験しなおすための準備を進めてゆくことにしたいと思います。

[2023年になりましたが、今年もよろしくお願いいたします。この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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