【断片から見た世界】『告白』を読む 「悪の起源」をめぐる問い

「悪の起源」に関する問い

アウグスティヌスが自分自身のうちで働く「自由意志」の存在に気づくに至ったのは、彼が以前から「悪の起源」について探求を続けてきたことも深く関わっていました。

「それでは悪はどこに存在し、どこからそこにしのんできたのであるか。悪の根源は何であるか。その種子は何であるか。それとも悪はまったく存在しないのか。それゆえまったく存在しないものをなぜわたしたちは恐れたり避けたりするのであるか。もしわたしたちが理由もないのに恐れるのであるなら、このように心をいたずらに刺激し、さいなむ恐怖こそ悪である……。」

この問題は、以後の『告白』の道行きにとっても非常に大きな重要性を持つものとなっています。今回の記事では、この本の叙述を通して問題の輪郭を見通しつつ、この問題が私たち人間にとって持つ意味について考えてみることにします。

「もし神が存在するならば、一体なぜ……。」

アウグスティヌスを悩ませていた問い:
神が存在するとするならば、悪はどこからやって来るのか?

私たちはふだん、この世界のうちに災いや悪が存在するということをいわば当たり前のこととして、ごく普通に受け入れています。そのため、こういった類の問いを根底から考え直す際には、思考を「形而上学」のモードに切り替えて、ゼロから考えてみることが必要であるといえます。

この世界を創造した神が、存在するとしてみましょう。神が真に神であるならば、その神は朽ちることもなく、滅びることもないはずで、その性質は「善」に他ならないはずです。当時のアウグスティヌスも考えたように、「もしも神が朽ちるべきものであるとするならば、それはもはや神ではないであろう」と言わざるをえないわけですから、あくまでも神が存在するとすればですが、その神は不朽で滅びることもなく、かつ「善」であるということになってくるはずです(「善」であるという性質については、追って考察することにします)。

さて、そうなると、ただちに一つの難問中の難問が浮かび上がってくるのを避けることはできません。すなわち、上に見たように、神が存在するとすれば、一体なぜこの世界に悪が存在しているのか、たちまちに理解しがたいものになってくるということです。

善なる神がこの世界を創造したのであるならば、私たちが住んでいるこの世界もまた、善なるものであるはずである。確かに、私たちが生きているこの世界は美しいもので満ちあふれており、人間の想像を超えるような仕方で見事に秩序づけられていることも一面では否定できないけれども、なぜこの世界のうちには同時に滅びや災いといったものが、そして、死が存在しているのだろうか。あるいは、他でもない人間こそが罪を犯して日々悪を生み続けていることも確かだとしても、その人間を作ったのもまた、神なのではないのか。当時のアウグスティヌスの心はこういった疑問によって悩まされ、その解決を求めてあえぎ苦しみ続けていたのでした。

 

「痛み」の問題は哲学にとって、無縁なものではありえない

「悪はどこから来るのか?」という問いは根底のところでは、2022年の現在を生きている私たちにとっても決して無縁なものではありえない、次のような問いにつながっていると言えるのではないか。

問い:
「この世界のうちには、なぜ痛みが存在するのか? Is life worth living?」

私たち人間はこの世界の内に生まれ、老い、時には病にかかり、最後にはこの世を去ってゆきます(有限性と被投性によって規定されているところの、世界内存在)。そして、その中には、生きるということそのものに対して絶望し、「わたしは生まれてくるべきではなかったのではないか」という問いを問わざるをえなくなるような人々も存在しています(被投性そのものへの根源的疑義としての、反出生主義的問い)。なぜ、そうでなければならないのか。私たち人間が喜びだけではなく苦しみも経験しなければならないことには、一体いかなる必然性があるのだろうか。

「必然性などはなく、そういうものなのだ。生きるとは、苦しむということなのだ。そこに意味を見出そうとすることそれ自体が間違っているのだ。」そのように考えることも、できるかもしれません。しかし、たとえば幼い子供の一人から「どうして人間って、苦しまなくちゃいけないの?」と真剣に問われた時にも、私たちは同じことを答えることができるだろうか。幼子は、すべての物事には意味があることを信じています。哲学する人間は、苦しむ人間の実存を賭けた問いかけに対して、何を答えることができるのだろうか。

アウグスティヌスの場合について言うならば、彼が探求のうちで彼自身の存在を超える〈他者〉の痛みに出会うことができるかどうかが、彼の探求の行方を握っているといえます。

すなわち、アウグスティヌスの真理の探求は、彼がキリスト教の教えの最も奥深いところに位置する「神の痛み」というイデーに到達してはじめて、ようやく全ての収束点を見いだすことになるのです。この世界のうちに実存する一人の人間であるわたしは、わたしの存在を超える〈他者〉の痛みに触れることで、はじめて痛むことの意味を知る。苦しむことが、「存在の超絶」そのものである〈他者〉の痛みに触れることへと、そして、この世界の内で共に生きている隣人たちと共苦する力へと変えられてゆく時にはじめて、わたしは生きることの本当の意味を知るようになるのではないか。アウグスティヌスの「悪の起源」をめぐる問いかけは根底のところではこのような、「共に苦しみながら生きること」の可能性につながっていると見ることもできそうです。

おわりに

「わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」一人の人間の魂の独白の書としての『告白』が向き合っている問題は決して軽いものではありませんが、この書が提起している問題はおそらく2022年の現在を生きている私たちにとっても、なおその重要性を失っていません。私たちとしては引き続き、この本を読み進めてゆくことにしたいと思います。

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 

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