【断片から見た世界】『告白』を読む いかに生きるべきか、その道を知らない

気がつくとアウグスティヌスは、「青年」と呼べる年齢を過ぎていた

気がついてみるとアウグスティヌスは、もう30歳の年齢を過ぎていました。

「それでわたしは、つらつらと過去をかえりみて、あの十九歳のときから、じつに長い年月がたったのに驚いた。その年、わたしは知恵の探究に心をもやされ、それさえ見出せば、むなしい欲望にかかわる希望や、偽りの欺瞞はすべて捨てさろうと決心した。ところが、どうであろうか、わたしはもう三十歳にもなりながら、あいかわらず同じ泥沼の中にはまりこんで、気を散らすはかない現世の享楽を求めて、こういったのである。『わたしは明日こそそれを見つけるであろう。きっと現れてきて、捕えることができるであろう……。』」

『告白』第六巻第十一章におけるこの独白は、この本の中でも特に印象深い箇所の一つになっています。今回の記事では、この箇所を読み解いてみることにしたいと思います。

「僕は一体、何をしているのか?」

アウグスティヌスの問い:
「僕はもう30歳を過ぎたというのに、一体何をしているのか?」

彼はこれまで、哲学の探求に多くの時間を費やしてきました。この世の成功や名声は、少なくとも彼にとっては既に虚しいものとなっています。他に代わるものがないので、まだそういったものに向けて労苦し続けてはいますが、それで自分が幸福になれるわけではないことはもう、痛いほどに分かっているのです。

けれども、哲学の探求で何か揺らぐことのないものを掴めたのかというと、そういうわけでもありません。

ファウストゥスに会えば、疑問点が解消されるはずだ。アカデメイア派の懐疑論は、他の哲学よりも優れているのではないか。司教アンブロシウスが教えているキリスト教の教えは、あながち不合理というわけでもないらしい。あちこちへ引きずられ、漂流し続けながらも、アウグスティヌスはまだどこにもたどり着いていませんでした。 確固としたものは何も掴み取っていないまま、生活の労苦だけはますます大きな重荷となって、彼にのしかかって来ています。

こんなことはすべて消えてなくなるがよい。こういうつまらない、むなしいことは捨てさっておいて、ひたすら真理の探究に専念しよう。生は悲惨であり、死は不定である。死がにわかに襲ってくるとき、どんな状態でこの世を去るのであるか。わたしたちはこの世でなまけていたことをどこで学ぶのであるか。」彼の心の中では、こんな生活を続けているうちに人生が終わってしまうのではないかという悩みも、初めて哲学の本に夢中になった19歳の時よりもずっと切実なものとなってきています。けれども、襲いかかってくる不安や焦燥感は、彼をどこにも連れていってくれません。「僕はこのまま、眠りから目覚めることなく死ぬのか?」という根の深い絶望が、次第に彼のもとに近づきつつあります。

 

いかに生きるべきか、その道を知らない

論点:
いかに生きるべきか、その道を知らない。

『告白』におけるアウグスティヌスのこの問いかけはある意味で、2022年の現在を生きている、哲学の道を行く人にも当てはまるものであると言えるのではないか。

哲学の道を行く人は自分自身の探求を進めてゆくうちに、自分の道はどうやら世の中の道とは違うらしいと少しずつ分かってきます。かつては、もっと人に知られるようになりたい、あるいは、自分の言葉が多くの人に届いてほしいと思うこともあった。けれども本当は、人間には、それよりも大切にするべきことがあるのではないか。生きるとはどういうことか、人はいかにして生きるべきかを問い続けることはひょっとしたら、世の中の片隅で、静かに続けてゆくべき必然性のある営みなのではないだろうか。

しかし、この道は他方で、自分がいかに惨めな存在であるか、いかにどうしようもない弱さを抱えているかを知ってゆく過程でもある。世の中には、自分はこれ以上はどうしようもない、もう生きてゆくのは無理だと思って打ちひしがれている人々もいる。痛みは、この世界のうちに確かに存在している。人間には、今とは別の生き方をすることも可能なのではないか、自分自身の痛みや幸福を超えて、隣人たちと本当の意味で共に生きてゆく可能性も存在するのではないかと自問しながら、考える人は自分自身の弱さに打ちひしがれ、やって来る未来に怯えながら、呻き苦しむようにして祈り続けている。

「心を尽くして神を愛し、それと共に、隣人を自分自身のように愛しながら生きてゆくこと」が、『告白』の長い道行きを経て、アウグスティヌスがこれから到達することになる答えにほかなりませんでした。2022年に哲学の道を行く人々は果たして、どのような答えにたどり着くのでしょうか。彼あるいは彼女にはおそらく、世の中で話題になるような、何か大きなことを成し遂げるといったことが求められているわけではないのかもしれません。求められているのは何か、人間にとって「真実な生き方」なるものがあるとすれば、それはどのようなものになるはずであるのか、その生の形を見定めるといった類のことなのではないかと思われます。

おわりに

「こんなことはすべて消えてなくなるがよい。こういうつまらない、むなしいことは捨てさっておいて、ひたすら真理の探究に専念しよう。」『告白』は、この切実な望みを抱きながら、それを立派に果たしきることもできず、呻き苦しみながら「新しい人間」として生き始めることもできずにいる一人の人間が、長い道行きの果てに回心に至る物語にほかなりません。私たちは引き続き、アウグスティヌスが歩んだ探求の道のりをたどってゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 

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