津和野・乙女峠の殉教者 「福者」認定に向けて本格調査へ

 

「山陰の小京都」と呼ばれる津和野(島根県)で殉教した37人が「福者」として認定されるための調査が始められた。その許可がローマ教皇庁(バチカン)からカトリック広島司教区(広島市)に届いたのだ。認められれば、明治以降に殉教した日本人では初めての福者となる。

殉教者の遺骨が埋葬された墓所(写真:カトリック津和野教会提供)

福者とは、信仰的に徳のある行為で信者の模範となった人物に、死後、バチカンから与えられる称号。カトリックでは「聖人」に次ぐ地位にある。日本では、キリシタン大名の高山右近など、計394人に授与されている。

江戸時代末期から明治初期、「浦上四番崩れ」という大規模な弾圧があった。1867年、プティジャン神父による「信徒発見」をきっかけに長崎・浦上の村民がキリスト教信仰を表明したところ、江戸幕府は彼らを大量に捕縛し、それを引き継いだ明治新政府が全国に流刑にしたのだ。津和野にも153人が移送された。

信徒らは長崎から津和野藩の御船屋敷(廿日市)まで船で運ばれた後、津和野街道を90キロほど歩かされ、津和野城下の光琳寺の本堂に幽閉された。改宗を求められたが、棄教する者はいなかったため、ひどい拷問が行われた。その過酷さと残虐さはかつてないほどだったことが記録に残され、1870年までに37人の殉教者を出した。

乙女峠記念堂(同)

広島司教区は1939年、信徒が幽閉されていた光琳寺の跡地を購入し、「乙女峠記念堂」を建立。毎年5月3日には、殉教者を偲ぶ「乙女峠まつり」が行われ、カトリック津和野教会から北西に2キロ離れた乙女峠まで行列が続き、「乙女峠殉教者を偲ぶミサ」が野外で行われる。教会に隣接するカトリック系の津和野幼花園(保育所)の園児やキリスト教関係者など県内外から約1500人が訪れるという。

乙女峠まつり(同)

2013年5月3日、当時、広島教区長だった前田万葉司教(現枢機卿、大阪大司教)が「乙女峠」を教区巡礼所に指定し、その殉教者の列福運動を始めることを宣言した。その後、広島司教区はもとより、浦上でも信徒発見150周年を機に列福の願いが高まっていた。

今回、福者認定に向けた本格的な調査が始まったことについて、津和野教会の山根敏身主任司祭(74)は次のように話す。

「どういうことが信仰的美徳なのか、信仰者としてどういう生き方をしたいのかという信仰の模範を知るための大きな意味が『列福』にはあります。それと同時に、乙女峠の37人の証し人が、明治政府に対して信教の自由をどのように証ししたのか、浦上四番崩れの中で起きたことが歴史的にどういう意味を持つのか、深く考える機会でもあります」

 






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