10月9日「良心に従って神の前で」

兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。(使徒言行録23章1節)

千人隊長クラウディウス・ルシアは「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い」(22・30)、ユダヤの最高法院を招集し、パウロを彼らの前に立たせた。今日の聖句は、パウロがその冒頭で語った言葉である。日本の社会でも良心による宣誓や、「良心に誓って」という言葉がある良心は人間が生まれながらに持っているものであるが、人間を超えて人間に「このようにあれ」と命じるものと考えられている。それゆえに、「良心が何と言っているか」と問うたり、誓わせたりする。しかし、良心が発信するものは必ずしも自明ではないし、人によってその感度も違うであろう。

聖書で使われている「良心」は、神と「共に知る」という意味である。神の御心(みこころ)を知って、これに従う心である。ゆえに良心が何と言うか」ではなく、神の律法が何と言うか」、より正しくは「主イエスが何と言うか」と問い、その意志に従うことが、パウロの言う「良心に従って神の前に生きてきた」という意味である。この言葉の後で、パウロは死者の復活について語るが、「良心に従う」とは、死後、すべての人が神の裁きの前に立つことと深く関係する。パウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。……こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」(24・15〜16)と言う。「良心に従って」生きるとは、神に対して自分の行動に責任を持つことを意味する。そして、復活の希望が私たちを良心的な生き方へと促すのである。

 

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