8月23日「憐れに思い」

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカによる福音書15章20節)

主イエスは放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)えによって、神がどのような方であるかを語った。弟息子は財産の分け前を手にすると、父の家に縛られない生活を求めて旅立った。人は神に縛られない自由を求める。父親は心配するが息子の自由を尊重する。息子は気ままな生活をして財産を浪費した。人は神から託されたものを浪費することが分かる。その地方に飢饉(ききん)があり、どん底に落ちた時、息子は我に返った。彼は拠(よ)り所のない自分に気づき、父の家を思い出した。もし人がどん底に落とされて、ただ惨めな自分に絶望するだけならば、救われない。自分のことを心にかけている神のことを考え、神の家に向かって一歩踏み出すことによって救われる。息子はそこを発ち、父親のもとに向かった。

今日の聖句は、帰って来る息子を迎える父親の姿である。「憐れに思い」とは、「腸(はらわた)がちぎれる」という意味である。父親は息子のことを腸がちぎれる」ほど心を痛めていたのである。このように神は、神の家から離れて、自分勝手な道を歩んでいる失われた一人ひとりに心を痛め、御子(みこ)を世に遣わすほどの強い愛でその魂を追い求め、御許(みもと)に立ち帰って来るのを待っている。そして、神の許に向かって一歩を踏み出す者がいれば、神の喜びは大きく、駆け寄って、かき抱く。帰ってきた息子に接吻し、僕たちに祝宴の用意を命じる言葉に、息子を取り戻した父親の喜びが響いている。この父親の喜びは、失われた罪人(つみびと)を探し求め、その一人が見つかると、今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19・9)と言う神の喜びである。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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