8月9日「これはわたしの子、選ばれた者」

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。(ルカによる福音書9章35節)

主イエスは祈るために、弟子たちを伴って高い山に登った。山の上で、弟子たちは栄光に輝く主イエスと、主の受難について語るモーセとエリヤを見た。そして、雲の中から聞こえる今日の聖句を聞いた。神は物言わぬ神ではなく、語る神である。神は多くの仕方で語られるが、今は、これに聞け」と、主イエスを通して語られる。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子(みこ)によってわたしたちに語られました」(へブライ1・1〜2)。人間は神の言葉を聞いて、生きる意味を知り、虚無から救われて、真に生きるようになる。語りかける神の言葉を聞かず、ただ働きまわるだけの人間は、その体と魂を消耗するだけである。

中米奥地に向かう発掘調査団が荷物の携行のために、現地人を雇った。旅程は日程表通りに進んだ。ところが、ある日突然、現地人は地べたに座りこみ、調査団が賃金アップを提案しても、脅しても、荷物を担ごうとしない。後日、彼らはこう答えた。はじめの歩みが速すぎたのでね。わしらの魂が後から追いつくのを待っておらねばならなかった」(ミヒャエル・エンデ「モモからのメッセージ」)。

今日の社会のさまざまなひずみは、私たちが物質文明の発展を追いかけて、魂を置き忘れたからではないか。「主の日」の礼拝は、私たちが神の言葉を聞いて、魂を取り戻す日である。私たちは「主の日」ごとに高い山に登り、神の言葉を聞いて魂を取り戻す。そして、神の恵みと力とを受けて山を降り、御心(みこころ)を行うために、日々の生活の場所に遣(つか)わされて行く。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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