【クリスチャンな日々】第34回 弱っている時間こそが幸せな人生への鍵 MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。桜もしっかり満開で、季節はすっかり春ですね。嬉しい気持ちになりますが、一方で季節の変わり目、年度末。もしかしたら仕事や学業や家庭で「春の嵐」に見舞われている方もいらっしゃるかもしれません。でも春の嵐が来るのは春がきた証拠です。嵐を越えるたびに気候はうららかになっていきますよ、きっと。さて、そんなこんなで今回もお相手させていただきます。よろしくどうぞ。

春の嵐の話から書き始めましたけど、春は心身ともに調子を崩してしまう人が多い季節です。SNSなんかでも「調子悪い・・・」という書き込みが毎年増える季節です。季節の変わり目で体調を崩しやすい上に、年度内に済ませないといけないタスクに追い込まれたり、新年度の新しい環境への不安に襲われたりと、調子を崩す理由はたくさんあります。調子を崩してしまうと、「もう動けない」とか「何もする気力がない」とか、「みじめだ」とか、「見放された気がする」とか、そんな気持ちになってしまうことも多々あります。

でも、そんな時に必ずしも「早く元気にならなきゃ」とか「落ち込んでいる自分はダメだ」とか思う必要はないと思います。大切なのはそんな時にこそ、少しでも笑うことです。

しんどい時、つらい時、かなしい時、さみしい時、みじめな時、ろくでもない時、そんな時をこそ、少しでも笑って楽しく生きること。もしかしたら、それこそが幸せな人生の秘訣なんじゃないかと思います。しんどい時、つらい時、かなしい時、さみしい時、みじめな時、ろくでもない時。そんな時にしか、放っておいたら人は神様に祈らないですし。そんな時に一言でも「神様、しんどいです」と祈って、思い荷物を神様に持ってもらうこと。それが祈りの意味だと思います。

落ち込んで、凹んで、もう動けない時。そんな時は無理に走ろうとせずに、一歩だけでも動いたら、少しだけ楽になります。その一歩さえ動けない時は祈れば、神様がおんぶしてくれます。その祈りさえできないときは、寝てしまっても良いんです。誰かが代わりに祈ってくれていますから。それがクリスチャン同士が「祈りあう」ということによる特権です。

僕は人一倍体が弱いので、ちょっと無理をするとすぐにグロッキーになってしまいます。スポーツをしていた頃も、ちょっと無理をするとすぐに怪我をしてしまって、動けなくなってしまいました。そんなことがあるたびに、「こんな自分じゃダメだ、強くならなきゃ」と自分を責めたのですが、責めるたびに余計に自分に無理をかけるので、また怪我をしてしまうという悪循環になってしまいました。でもある時、「もうしかたないからこの弱さと付き合いながらやっていこう」と思ったんです。そうしたら怪我が減りました。それは今の仕事でも同じことです。「体力をつけなきゃ、気力をつけなきゃ」と焦っている時よりも、「この体力のなさ、気力の弱さと付き合いつつ、できることをやっていこう」と思ってからの方が、体力的にも気力的にも楽になって、むしろ仕事がはかどるようになりました。

自分の弱さとつきあうということは、弱い時間を受け入れるということです。そしてそれを受け入れてみると、それは決して単に悪い時間ではないことに気付きます。弱っている時ほど神様に祈りますし、様々なことを考えます。自分を見つめ直す時間にもなります。神様を信じていない人なら、祈らなくてもいいです。ただ自分を見つめ直すだけでも、それは人生にとって大切な時間です。そしてそんな時にこそ、自分のすぐ近くにある小さな幸せなんかにも気づきやすいものです。元気で意気揚々としている時、人は遠くばかりをみがちです。地平線の先をみがちです。しかし、元気を失った時、人は足元をみます。そうしたら、足元の小さな花に気づいたりもするんです。

今、疲れてしまっている人、弱ってしまっている人。そんな時にしか入らない「小さな幸せスイッチ」がきっと心にはあるものですから、どうかそれをオンにしてみてください。

春の嵐が過ぎ去って、早くうららかな日々が訪れますように。
明日からちょうど受難週。そして受難週が過ぎればイースターがやってきます。
イエス様も栄光の前には苦難を経験しているんです。

それではまたいずれ。
MAROでした。
主にありて。

 

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