【クリスチャンな日々】第24回 「禁止」で心をラクにする考え方 MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。秋もすっかり深まって、毎朝毛布の恋しい季節となりましたが皆さまいかがお過ごしでしょうか。新型コロナウイルスは相変わらず猛威を奮っていますが、「新しい生活様式」には皆さまもう慣れたでしょうか。僕は慣れたり慣れなかったり、今だにちょっと悪戦苦闘しています。

さて、コロナウイルスといえば先日、仕事仲間が不運にもそれに感染・発症してしまいまして、一緒に仕事をしていた僕も濃厚接触者だということで、保健所から数日間の外出自粛を要請されてしまいました。一瞬「これは困った」と思いましたが、しかし、仕事はすべてオンラインで済ませられるように手配し、買い物はネットスーパーで・・・と、今の世の中は便利ですから、外出を自粛してもそれほど困ることはありませんでした。むしろ移動時間がなくなった分、自由な時間が増えて、本を読んだり原稿を進めたりと、有意義な日々を過ごすことはできました。僕はこんな風に思いました。「外出してはいけないということは、外出しなくても良いということだ」僕は外出を禁止されたことによって、外出から解放されたとも言えるわけです。

さて、キリスト教について、というか宗教全般について一般の方が持つイメージの一つとして、「なんかいろいろ禁止とかされそう」というのがあるのではないでしょうか。実はキリスト教って他の宗教と比べると意外とそういう「禁止事項」は少ない方なのですが、それでもたとえば「人の悪口を言っちゃいけない」とか「人を裁いちゃいけない」とか「嘘をついちゃいけない」とか「占いをしちゃいけない」とか、いろいろあります。前の3つの例は「うん、まぁそうだよね」と納得される方も多いと思いますが、では最後の例の「占いをしちゃいけない」はどうでしょう。日本人って何かと占いが好きですから、「え?ダメなの?どうして?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

これもさっきの外出自粛の話と同じように「占ってはいけないということは、占わなくても良いということだ」と考えると少しわかりやすいかと思います。占いって、心を乱されがちじゃないですか?運勢が良いと言われれば何が起こるんだろうとワクワクし、悪いと言われればビクビクし、相性が良いと言われればドキドキし、悪いと言われればガッカリし・・・「あたるも八卦、あたらぬも八卦」とわかってはいても、どうしてもそれで心が揺れてしまったりします。僕はクリスチャンになる前から、占いとか運勢診断とかはあまり信じないタイプでしたけど、それでも朝のテレビの占いコーナーで「今日の牡牛座の運勢は最悪です!」なんて言われると、少し機嫌が悪くなったものでした。キリスト教で占いを禁止しているのは「当たるかも当たらないかも分からないものに心を乱されてはいけないよ」ということです。先ほどのように言い換えれば「心を乱されてはいけないということは、心を乱さなくても良いということ」です。

占いはあくまで一つの例であって、聖書には他にも「お酒を飲みすぎてはいけない」とか「盗んではいけない」とか「不倫してはいけない」とか様々な「禁止」がありますけど、それをみんな「お酒は飲み過ぎなくていい」「盗まなくてもいい」「不倫しなくてもいい」と置き換えると、ちょっと心が楽になりませんか。

聖書が禁じていることというのは、神様から「それは君がしなくても私に任せてくれれば大丈夫」ということです。「占いに頼らなくても私が君に道を教えてあげるから大丈夫」「お酒で憂さを晴らさなくても私が慰めてあげるから大丈夫」「人のものを盗まなくても私が君の必要なものは与えてあげるから大丈夫」「不倫で寂しさを埋めなくても私がいるから大丈夫」と、こういうことなんです。

聖書から離れて例えばもっと身近な「禁止」である「禁煙」とか「金髪禁止」だって「タバコを吸わなくても大丈夫」「髪を染めなくても自分は美しい」と考えたら、ずいぶん心が楽になりませんか。

聖書にはルール(律法)を守ることにより、私たちはより自由になるのだと書いてあります。そして「私たちは罪から解放されている」とも書いてあるんです。一見すると「ルールに縛られることは自由とは正反対じゃないか」と思われるかもしれませんが、ルールによって悪いものから解放されて自由になるんです。

昔読んだ小説にこんなことが書いてありました。「何もできないということは、何もしなくて良いということだ。そう考えたら不思議と気分が楽になってきた」細かくは覚えていないですし、小説の名前も忘れてしまいましたけど。

「○○しちゃダメ」から「○○しなくていい」に変換すると自分を律することが少しラクになります。特に自分を追い詰めがちなストイックな方には試してみて欲しいです。

それではまたいずれ。
MARO
でした。

主にありて。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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