子どもの声は“騒音”?|子どもの声は未来からの声【ルーテルアワー・聖書講座】

ルーテルアワー・聖書講座 

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「やっと目を向けてもらえたなぁ」と思えたのが、「子どもの声」に関するニュースを聞いたからである。「『子どもの声は“騒音”ではない』法律で定めることも視野に政府検討」(4月28日TBSニュース)という報道を聞きながら、その一方で少し物悲しさも感じてはいた。私自身、子どもの声を「騒音」と感じたことも考えたこともなかったのは、4人の子どもたちと一緒に生活したからだろうし、今も児童の施設に関わらせていただいているという実体験があるからだろう。子どもは思いのままに感情を爆発させ行動に移す。それを制することは子どもたちにとって苦痛以外の何物でもないだろう。勿論、多少の抑制は必要だろうが、全てを抑え込んでしまうのは「子どもでいる権利」を奪うことにもなると思えて仕方ない。だからこそ子どもたちがあるがままで育っていく環境を整えてあげることは大切だと思えるし、「子どもの声が“騒音”かどうか」という議論をすること自体に物悲しさを感じてしまうのである。

実を言うと教会もまた子どもたちの声を「騒音」と位置付けてきた歴史があるのではないかと私は思ってきた。私自身「子どもたちの声がうるさい」という苦情も聞かされたし、恐らく「お母さんが安心して礼拝に参加できるように」という理由で「母子室」を設置された教会も知っている。確かに大人たちが礼拝を粛々と進めるためには必要なのだろうが、その背景に「子どもの声は騒音」という無意識の合意が潜在していたからではないだろうか。

ドイツでは既に騒音問題についての法律が成立し、その中で子どもの声を「騒音ではない」と定めている。その背景には保育園の新設等の際「子どもの声が騒音だ」と反対意見があって設置できなかったということが多発したからだという。実は同じようなことが私たちの教会の周辺でもあった。あの時も活動的なご婦人が、「保育園が出来たら騒音で大変です、反対しましょう」と、当時既存保育園の理事長であった私に声を掛けてこられたことを思い出す。保育園は他の理由で建つことはなかったが、理解されていないことを実感した時でもあった。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10:14)主の眼差しは、子どもにも等しく向けられている。間もなく「こどもの日」、「子どもの人格を重んじ、幸福をはかり、母に感謝する日」と制定理由にあるのだから、先ずは子どもの声は“騒音”ではないという認識から始められたら、安心して礼拝にもお出でいただけるのではないかと思えるが…。

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