キリシタンは弾圧されただけではかなった 國學院大學シンポジウム「考古学が明かす新たなキリシタン像」

 

シンポジウム「考古学が明かす新たなキリシタン像」が10月13日、國學院大學(東京都渋谷区)で開催され、約300人が集まった。

講演後にシンポジウムが行われた=10月13日、國學院大學(東京都渋谷区)で

このシンポジウムは、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたことを記念した特別展「キリシタン──日本とキリスト教の469年」(主催:國學院大學博物館、西南学院大学博物館)の関連企画。9月15日から10月28日まで國學院大學博物館で開かれ、現在は西南学院大学博物館に会場を移して開催されている(11月2日~12月13日)。

シンポジウムには、國學院大學准教授の深澤太郎(ふかさわ・たろう)さん、東京藝術大学非常勤講師の今野春樹(いまの・はるき)さん、大浦天主堂キリシタン博物館研究部長の大石一久(おおいし・かずひさ)さんが登壇し、これまでの研究成果を報告した。

國學院大學准教授の深澤太郎さん= 10月13日、國學院大學(東京都渋谷区)で

深澤さんは「日本における宗教考古学とキリスト教」というテーマで講演した。

「日本では、在来のアニミズム的神道と、仏教をはじめとする外来宗教が、時に独自性を主張しつつも、ゆるやかに並存・融合していた。かくれキリシタンも、その遺物から、神仏信仰と併存しながら信仰を生きながらえさせていたことが分かる。悲惨なキリシタン弾圧に注目されがちだが、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令まではかなりの勢力を持ち、キリシタンによる廃仏毀釈も行われている。高価な出土品を見ても、弾圧だけでなく逆の立場もあった」

東京藝術大学非常勤講師の今野春樹さん=10月13日、國學院大學(東京都渋谷区)で

続いて登壇した今野さんは、「キリシタン考古学の枠組み」と題して語った。今野さんが調査で重視するのは、キリシタン墓碑だ。

「キリシタン関連の遺物が注目されるようになったのは大正時代に入ってからで、それは京都で偶然発見された墓碑に始まる。これまでの調査から、従来の虐げられたキリシタン像とは違う姿が明らかになった。

各遺跡から確認される墓はどれも、長軸方向を一にして整然と配列されている。そこには、墓を営むうえでの計画性と、埋葬に際しての冷静さと心の余裕を見いだすことができる。人の心の中身までは解明することはできないが、墓の様子からも暮らしぶりが分かる。キリスト教徒として生涯を全うし、天に召された人々がいたことは間違いない。各遺跡で整然と並ぶキリシタン墓を見ると、生涯を通じてキリスト教信仰を保ち、幸せなうちに一生を終えたキリシタンがたくさんいたことが想像できる」

大浦天主堂キリシタン博物館研究部長の大石一久さん=10月13日、國學院大學(東京都渋谷区)で

最後に大石さんが、「天正遣欧使節と千々石(ちぢわ)ミゲル」という題で話をした。千々石ミゲルは、日本初のキリシタン大名、大村純忠のおいで、1582年に伊東マンショらと一緒にローマに派遣された少年遣欧使節団のメンバーの一人。帰国後はイエズス会を脱会し(1601〜03頃)、棄教したと伝えられてきたが、昨年、ミゲルのものと思われる墓からロザリオなど信仰用具が発見されたことにより、ミゲルの棄教に疑問が投げかけられた。

大石さんはミゲルの墓の発掘に初めから関わり、謎(なぞ)の多いその生涯を精力的に調べてきたが、ミゲル脱会の背景には当時のイエズス会のあり方に問題があったと見る。領土拡大という政治的意向を持つ者や、その国の文化を尊重するどころか破壊していったという悲劇もあった。つまり、イエズス会士の中には、キリストの愛を説く「祈りの顔」と、自らの利益のために他国の文化や信者の純粋な信仰を踏みにじる排他的な「刃(やいば)の顔」があったのだ。ミゲルはその二面性に耐えられずイエズス会を離れたというのが大石さんの見解だ。

しかしその一方で、ミゲルが脱会後に住んだ地域すべてがキリシタンのいる地であったことから、ミゲルはイエズス会を辞めたものの、信仰は捨てていなかったと推測する。「墓の外からではキリシタンかどうかはまるで分からなかったミゲルの墓から、ロザリオなどが発見されたのはまさに奇跡であった」と締めくくった。

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