映画「鬼滅の刃」興行収入100億円突破 煉獄杏寿郎とキリスト教

アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃(きめつのやいば)』無限列車編」(外崎春雄監督)の興行収入が、公開した16日から25日までの10日間で100億円を超えたと、配給する東宝とアニプレックスが26日発表した。日本の上映作品で歴代1位(興収308億円)の「千と千尋の神隠し」が100億円を超えたのは25日間だったので、それを大幅に短縮する史上最速記録となった。

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』公開中PV

 

「鬼滅の刃」は、吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)が「週刊少年ジャンプ」に2016~20年まで連載した漫画。人を喰(く)らう鬼が住む大正時代の日本を舞台に、少年・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)が、家族を殺した鬼を討つため、また鬼と化した妹の禰?豆子(ねずこ)を人間に戻す方法を求めて、「鬼殺隊」の仲間たちと戦う姿を描く。19年にテレビアニメ化され、劇場版はその続編となる。


映画では、炭治郎に大きな影響を与える鬼殺隊の最上級隊士、煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)という重要なキャラクターが登場する。この「煉獄」というのはキリスト教で使われる言葉だ。作者がキリスト教のことをどれくらい知った上でこのネーミングをしたのかは分からないが、次のことを押さえた上で映画を観れば、より興味深いものとなるかもしれない。

「煉獄」とは、人間が死後、天国に入る前に清めを受ける場所または状態をいう。そこで神から与えられた苦しみを喜んで受けることによって罪の償いをし、浄化される。ただ、その霊魂は神を心から愛し、天国に到達できることが確実であるため、そうした苦しみによって心の平安と喜びが乱されることはなく、浄化が終わると霊魂はすぐに天国に引き上げられるという。

もともとこれはカトリックの教義で、次の聖書の言葉に根拠があるとされる。

イエス・キリストという……土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです。誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます。(1コリント3:11~15)

一方、「煉獄というのは聖書に根拠がない」としてプロテスタントはこれを否定している。今日のカトリック教会でも、煉獄について触れられることはあまりない。

確かに、「自分の努力によって天国に入れる」とは、聖書では教えていない。神の一方的な恵みを信じることで、私たち人間は救われるのだ。

しかし、キリストを信じれば罪も苦しみもなくなって幸せになるとは、プロテスタントでも考えない。救われた後も、クリスチャンはさまざまな苦しみにあいながら、傲慢(ごうまん)さが打ち砕かれ、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という霊の実を結ぶのだ(ガラテヤ5:22~23)。これを「聖化」と呼び、死後ではなく命の日の限り成長していくことは、プロテスタントでもカトリックでも重視されている。

今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。(1ペトロの手紙1:6~7)

煉獄杏寿郎は、その卓越した戦闘能力や精神性を絶賛され、鬼となるよう再三勧誘を受けるが、最後までこれを跳(は)ね除(の)け、人間として鬼と戦い抜いた。それは、つらい境遇を経て、今の煉獄があるからだ。「心を燃やせ」、「胸を張って生きろ」と言った煉獄の姿を見て私たちも、たとえ鬼のような理不尽な現実に見舞われても、来るべき日を望み見ながら、苦しみに立ち向かって懸命に生きようと心動かされるのではないだろうか。

雑賀 信行

雑賀 信行

カトリック八王子教会(東京都八王子市)会員。日本同盟基督教団・西大寺キリスト教会(岡山市)で受洗。1965年、兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。90年代、いのちのことば社で「いのちのことば」「百万人の福音」の編集責任者を務め、新教出版社を経て、雜賀編集工房として独立。

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