神さまが共におられる神秘(61)稲川圭三

決して取り上げられないただ一つのこと

2016年7月17日 年間第16主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
マリアはよいほうを選んだ
ルカ10:38~42

今日の「マルタとマリアの話」は、人の心によく残る話です。教会の中には大勢の女性がいらっしゃいますが、「私はどちらかというとマリア型だ」とか、「私はマルタ型だ」とか言ったりします。

今日の福音を表面的に解釈すると、マルタは体を動かして世話するタイプで、マリアはじっとお祈りをするタイプだから、イエスさまは「祈るほうが大切だ」とおっしゃっていると、ステレオタイプに受け取ることがあるかもしれません。

フェルメール「マルタとマリヤの家のキリスト」(スコットランド国立美術館)

しかしイエスさまは決してそういうことを言っておられません。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41~42節)と言っておられます。

「取り上げてはならない」は「取り上げられない」と訳すこともできるので、「必要なただ一つのことは取り上げられない」と解釈してよいかもしれません。

それは、体を動かして奉仕するか、じっと祈るか、どちらかということではなく、イエスさまの言葉に耳を傾け、その言葉に結ばれて生きることだと思います。

このとき、イエスさまはどんな話をなさっていたのでしょう。人間は神さまの子ども。なぜなら、神さまがご自分のいのちを吹き入れられたから(創世記2:7)。人間は神さまの子ども。一人ひとりの中に神さまが自分の似姿を刻んでおられるから(同1:27)。そのことを子どものように聞いて受け取るなら、そのことを認めて生きるいのちになっていく。そういうことを教えていたのではないでしょうか。

「決して取り上げられない必要なただ一つのこと」とは、人間がみんな神さまの子どもであるという真実を、自分にも人にも認めて生きることだと私は思います。

そのことを受け取って生きることは、ある人には体を動かして生きることかもしれないし、ある人には体を動かすことなく生きることかもしれません。表し方はそれぞれです。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」

それは、神さまと一緒に生きることではないでしょうか。自分にも人にも「神さまが一緒にいてくださる」ことを受け取って生きることは、決して取り上げられてはならないし、取り上げられない。イエスさまはそうおっしゃっているのだと思います。

それには、いろいろな生き方があります。こういうやり方でなければならないということがありません。

マルタはマルタで、イエスさまをもてなそうと、できる最善を尽くそうと思ったのです。イエスを家に招いたのもきっとマルタでしょう。そして、イエスさまをもてなさなくてはならないと思って、一生懸命に整えたでしょう。

するとマリアは、イエスさまの足もとに座ってその話に聞き入っているのです。マルタは台所と居間を何回も往復しながら、横目でマリアを見ています。「なんで私ばかりにやらせるのかしら」。そのうちに、「それにしてもイエスさまだって少し気がついてもよさそうなものだわ」と思いながら、わざと食器を乱暴にテーブルに置いたりして(笑)。

ついに堪らなくなって、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言いました(40節)。

マルタはマルタなりにイエスさまにお仕えしようとしたでしょう。でも、マリアがイエスさまの前に座ってじっと話に聞き入っているので、マルタは、自分がしようとしていた良いことが、マリアのせいでみんな「取り上げられてしまった」みたいな気になったのではないでしょうか。「必要なただ一つのことは取り上げられない」とイエスさま言われたけれども。

もしかしたら、このあとイエスさまはマリアに向かって、「ほら、お姉さんがああ言っているから、手伝ってあげなさい」(笑)とおっしゃって、マリアはお姉さんを手伝って、一緒にもてなしの準備をしたかもしれません。そうすると、イエスさまの話を聞くというポジションは取り上げられたかもしれないのです。でも、「イエスさまの話を聞き、そのことに結ばれて生きる」ということは取り上げられないと思うのですよね。

私たちも一人ひとり、それぞれの場所で、それぞれの仕方で、それぞれの機会に、必要なただ一つのこと、人間がみんな神さまの子どもであることを受け取って生きることができますようにお祈りをしたいと思います。

そのことから引き離そうとする出来事がたくさんありますでしょう。でも、「神さまが共にいてくださる」という必要なただ一つの祈りをして、「決して取り上げられないその真実」に結ばれて生きるように望みたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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