ボサム・ジーンはアンバー・ガイガーに殺された。警官の彼女は、非番の日に自分のアパートの部屋と勘違いして、そこにいたボサムを撃った。ボサムの弟(ブランド)が法廷で愛のスピーチをする様子は、これまでに多くの人の心を打った。彼はアンバー・ガイガーを赦(ゆる)したのだ。
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彼は神の愛にあふれていた。
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この赦しの行為は世界に衝撃を与えたが、赦しは、これまで2000年間、キリスト教信仰の中心だったものだ。クリスチャンが福音の真理を実践して生きるとき、より良い道が世界に示される。
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「ボサム」とは「広い谷に住む男」を語源に持っている。どん底に落とされ、鬱々(うつうつ)とすることを意味する言葉だ。しかし彼の人生は、上からのメッセージを伝える。命を与える福音の山頂からのメッセージだ。弟ブラントが証言するボサムの人生は、より良い道、命を与える道、すなわちイエスの道を指し示しているのだ。
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しかし世界の大部分にとって、このような凶悪な暴力行為は、心に深い怒りの種を植えつけ、最後は怒りと憎しみの実をもたらす。その先にあるのは、鬱々とした怒りへの道だ。
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しかし、それはボサムが生きた道ではないし、彼の考えに沿うものでもなかった。命をなくしても、彼が生きた人生は、根本的な赦しを証しするものだ。その赦しとは、イエスの命とその思いを通じてしか受け取ることができない。
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この事件についての記事を読み、その証しを見たとき、私の頭には「#イエス」という言葉だけが浮かんだ。そして私は、それをそのままツイートした。
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考慮すべき他の問題があることは分かっている。「正義はどこにあるのか」、「構造的な人種差別、白人の優位性、権力の濫用の問題はどうか」など、その根底には多くの問題が横たわっていることは理解しているつもりだ。
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ブラントは、今回の証しですべての事柄について意見を述べたわけではない。これらの重要な問題について議論する機会はほかにもあるだろう(私も何度も関連記事を書いている)。しかしここでは、二人の兄弟の人生に現された赦しの心を見逃さないようにしたい。
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兄ボサムの思いと生き方を誰よりもよく理解していたブラントは、福音にある「赦し」が持つ根本的な性質を人々に知らせ、それを強く勧めている。ほかにも考えるべき問題があることを認めつつも、少しの間、赦しの性質について熟考してもかまわないだろう。
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つまるところ、福音の驚くべき力は「赦し」において発揮される。
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赦しに関するエッセイの中でC・S・ルイスは、「キリストの赦しが、他者に向かう私たちの姿勢を定める」ということを取り上げている。
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それは、私たちの立つ視点をただ思い返し、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と毎晩ささげる「主の祈り」を真実なものとすることだ。私たちにはそれ以外の赦しは与えられていない。それを拒否することは、自らに対する神の憐れみを拒否することだ。例外をほのめかすことなく、神はそのことをまっすぐ伝えている。
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ルイスはそれを率直かつ厳しい真実に要約している。「クリスチャンであるということは、赦せない罪を赦すことだ。神があなたの中の赦されざる罪を赦したように」
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つまりブラントとボサムは、イエスに倣(なら)って赦しを現したのだ。それはどのように可能とされたのだろうか。
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How?
1 赦しは反文化的
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その赦しの行為が衝撃的である理由の一つは、文化に反する行為だからだ。
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現代は、酷評が評価される時代だ。怒りや人を罵(ののし)りたくなる気持ちは復讐を正当化する。「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:39)と繰り返し唱える人々が議論を制する。人々は火に対して水をかけるのではなく、火には火でやり返すことを望む。
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イエスが執拗(しつよう)に主張する赦しとは、まさに反文化的だ。
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イエスは弟子たちに対して、もう一方の頬を向けるよう教える(同39節)。イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と言い(18:22)、赦すことに上限を設けない。自分の罪の言い訳として他人の罪を持ち出すことは、私たちには許されていない。
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当然ながら、これは困難なことだ。そして、これこそ赦しが反文化的である根拠だ。さらに重要なのは、(イエスに倣った)赦しが超自然的である証拠なのだ。
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マティアス・グリューネヴァルト「イーゼンハイム祭壇画」(第1面)
2 赦しは、罪の罰を取り除かない
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赦しとは、罪を見逃したり、免除したりするものだろうか。広くそのように信じられているが、私たちの社会、そして多くのクリスチャンもまた、その理解に苦しんでいる。そして、赦すことはその罰を無効にするものだと考える。しかし、それは嘘(うそ)だ。
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神学の観点で言えば、そういう理解は聖書的ですらない。イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と叫んだ(ルカ23:34)。イエスは、自分を十字架につけた人類の罪を免除したのではなく、その罰を引き受けたのだ。
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罪の罰はあったし、今もある。
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しかし赦しは、復讐や仕返しから私たちを解放する。イエスは、人々の罪に対する究極の判決を引き受けたのだ。「罪にふさわしい罰を受けさせるべきだ」と言う必要はない。それはイエスの十字架によってすでに引き受けられている。
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ブラントの驚くべき発言は、その理解に立っている。「あなたが刑務所に行くことを私は望まない。あなたにとって最善な判断が下されることを望んでいる」と彼は言った。要するに彼女に望んだことは、イエスがすべての人に望んでいること、すなわち贖(あがな)いと赦しだったのだ。
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また、罪深い行動に対して責任をとることは、それが取るに足らないものであれ、凶悪なものであれ、現在、この世では必要だ。
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ガイガーは禁錮10年の有罪判決を受けたし、それが彼女の罰となる。赦しはその罰を否定するものではない。
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3 福音は「赦し」によって証明される
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イエスの弟子として、赦しの呼びかけに応えて生きる以上に、福音の現実と力を現す方法などあるだろうか。その反文化的・超自然的な本質は、それを目にする者に自らの限界を思い知らせる。そして彼ら彼女らを、物質的世界の偶像を超える愛がどこから来るのかと駆り立てるものだ。
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赦しの力を知っていても、それに加わるクリスチャンは少ない。
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残念なことだが、クリスチャンはキリストの反文化的な赦しの姿勢ではなく、報復を求める文化に惹(ひ)かれることが多い。2019年の情勢がそうさせるのだろうが、それはクリスチャンが受けるべき招きではない。
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キリストの語った「仲間を赦さない家来」のたとえのように(マタイ18:21~35)、私たちは王から計り知れない赦しを与えられながらも、すぐにこの世で自分が貸したものを返してもらおうとしてしまう。決して返すことのできない額の借金を帳消しにされながら、私たちは小銭を求めて這(は)いつくばっている。
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この点でこの赦しの行為は、教会の存在意義を教会自身に問う行為であり、私たちが喜んでいるその赦しの行為を自らも行うよう私たちに呼びかけるものだ。
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動画をシェアすることだけで満足してはいけない。私たちも同じように行うべきだ。赦しを!
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エマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会(写真:VOA)
4 赦した人の魂は、その赦しによって解放される
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(2015年、バイブル・スタディーの最中に男が教会に入り込み、9人を殺害した)エマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会の事件から今日まで、アフリカ系アメリカ人の教会から多くの赦しが宣言されている。彼ら彼女らは長い間、社会の片隅に追いやられてきた。その働きは、私たちに赦しの力を思い起こさせてくれる。さらにひどい扱いを受けた者も多い。
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タイラー・バーンズはこう考察する。
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ブラント・ジーンの赦しの行為は、彼個人の強靭(きょうじん)さとキリストのような人格が現された瞬間だった。ただ私たちは、悲劇的な状況を理解したくて、整然とした結末を望むばかりに、こういった行為を誇張しがちだ。しかし私たち(黒人)は、あらゆる痛み、怒り、悲しみ、希望、赦し、愛を感じる生身の人間なのだ。
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Brandt Jean’s act of forgiveness was a moment of immense personal strength and Christ-like character. But we often magnify these gestures because we desire neat, tidy endings that help us make sense of tragic circumstances. We are real people who feel the full range of pain, anger, sadness, hope, forgiveness, and love.こういった感情はすべて、人間的でありながら、神への深い信仰を表すものでもある。「赦すべきではない」と主張するわけではないが、私たちは赦す時にさえ深く思いを巡らせるべきだ。そして、まだその段階に至っていない人々に対して、それを刃(やいば)のように突きつけるようなことはしてはいけない。
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ALL of these expressions are human and can be faithful to God. I’m not advocating that we withhold forgiveness, but that we should be reflective even as we extend it. And refuse to weaponize it against those who may not be there yet.
バーンズの考察は、より広範囲に当てはまるだろう。どんな社会であっても、最も醜い不正の対照として、最も深い赦しが存在しうる。
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人種差別の暴力が続く現実の中で、数多くのキリスト的赦しの例が示され、その多くが広くシェアされているが、ほかのコミュニティーにも同様の戦いを言い表す機会は十分にあった。この10年、深い赦しの行為の大部分は、クリスチャンの女性、子ども、有色人種、難民、および同じように権利を奪われたグループによって起こされている。
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赦しによって癒やしへの道が開かれるが、すぐに癒やしが起こるわけではない。それは入り口であって、結論ではない。犠牲者が赦した後にも、癒やしのプロセスは進んでいく。教会は、その和解の働きに従事する必要がある。
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(写真:LearningLark)
継続的な赦し
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「赦しは一度きりの行為であり、それは過去を忘れて前に進むことだ」という誤解を持つ人がいる。そんな簡単なことだったら、どれだけよかっただろう。しかし私たちはそれぞれ個人的・集合的な記憶を持ち、歩みを進める。他者から与えられた痛みは、たとえそれが赦しの力によって軽減されたとしても、その後何十年も続く可能性がある。
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それでも福音が素晴らしいのは、私たちが神の赦し、癒やし、和解の本質を伝え続けることができるからだ。そのために必要なのは、私たちが堕落した世界に生きていることを理解し、赦しの働きに献身する心を持つことだ。
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深く傷つけた人を心からの言葉で赦せたとき、私たちは変わることのできる力を感じ、キリストが十字架上で行ったことの重みと大きさを理解できる。
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ブラントはアンバーを赦した。それは、イエスが誰であるかを教え、私たちがキリストにあって何者なのかを思い出させ、世界の進むべき道を指し示すものだ。
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執筆者のエド・ステッツァーは、ホイートン大学のビリー・グラハム特別委員長および伝道ミニストリー・リーダーシップ学部長、ビリー・グラハム・センター事務局長。ミッション・グループを通して教会リーダーシップについて出版している。
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Ed Stetzer holds the Billy Graham Distinguished Chair of Church, Mission, and Evangelism at Wheaton College, serves as Dean of the School of Mission, Ministry, and Leadership at Wheaton College, is executive director of the Billy Graham Center, and publishes church leadership resources through Mission Group.本記事は「クリスチャニティー・トゥデイ」(米国)より翻訳、転載しました。翻訳にあたって、多少の省略をしています。
「クリスチャニティー・トゥデイ」(Christianity Today)は、1956年に伝道者ビリー・グラハムと編集長カール・ヘンリーにより創刊された、クリスチャンのための定期刊行物。96年、ウェブサイトが開設されて記事掲載が始められた。雑誌は今、500万以上のクリスチャン指導者に毎月届けられ、オンラインの購読者は1000万に上る。