戦時中、沖縄の教会は──新刊『南島キリスト教史』から

 

6月23日は、沖縄戦が終結した日にちなんで、沖縄県が「慰霊の日」としている記念日。タイミングよく先日、新教出版社から一色哲(いっしき・あき)著『南島キリスト教史──奄美・沖縄・宮古・八重山の近代と福音主義信仰の交流と越境』が刊行された。

一色哲著『南島キリスト教史』(新教出版社)

「南島」とは、沖縄島、奄美大島、徳之島、喜界島、宮古島、石垣島などの群島全体を指す。「現在、南島には330余りのキリスト教会があり、約5万人の信徒(人口比でいうと約3・5%)が暮らしている。南島の教会は、教派も多彩で、単立教会も含めてペンテコステ系などの福音派・聖霊派の教会が多いことも特徴的である。そして、それらの福音派・聖霊派教会は、概して規模も大きく、若い人たちもたくさんいて、活気に満ちている」(9頁)

しかし、その南島のキリスト教会は戦時中、どのような状態だったのだろう。新教出版社の許可を得て、『南島キリスト教史』から紹介する。

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戦前、〔奄美〕大島の名瀬にはホーリネスの教会があった。日本ホーリネス教団大島キリスト教会『宣教百周年記念誌』(同教会、2008年)によると、当時、この教会は、同地出身の小倉平一牧師が牧会していた。小倉は自宅を開放して集会を開いていたが、あるとき、台風で集会場が倒壊する。それを期に、小倉は夫婦協力して、独力で鉄筋のはいった教会堂を建てようとする。

小倉平一牧師(写真:同書より)

もともとホーリネス教会は、伝道地での自給が原則で、小倉夫妻は、以後15年間、土地を売り、夜業で大島紬(つむぎ)を織りながら資金を得、材料を調達して建設を続けた。そのような生活の中で、夫人は1941年に過労死した。また、軍事化の進行による鉄材の徴発で、教会再建も建設中止に追いこまれた。現在の大島キリスト教会は、小倉夫妻が建設した壁に屋根を加えたものである。そして、小倉も、終戦の混乱の中、1945年8月19日、過労によって死去した。その死は「餓死同然の殉教的な死」といわれている。

現在の大島キリスト教会(写真:大島キリスト教会提供)

このような牧師の受難は、石垣島でも見られた。日本基督教団八重山伝道教会では、比嘉盛久牧師の東京転出にともなって、1942年10月、新垣信一牧師が首里教会より赴任する。しかし、沖縄戦が差し迫ってくると、牧師一家の生活は、極度に困窮した状態に陥る。つまり、「先生〔新垣信一=引用者〕の給料は打ち切られ、百合ちゃん〔新垣百合子=引用者〕は家計を助けるために働く事になり、幸い近所の崎山用能さんのお世話で竹富村役場〔同役場は、当時の石垣町内にあった。=引用者〕に勤める事になりました。先生は、渡久山姉宅の農作業を手伝い、芋や野菜を分けて貰(もら)い生活の足しになさいました」という具合であった。新垣牧師は琉球讃美歌の優れた作者でもあり、南島全体の教会にとって得がたい存在だった。しかし、このような困窮した生活を送る中で、1945年8月24日、マラリアに罹患(りかん)し死去する。

南島のキリスト教信仰の豊かさは、外からのさまざまな恵みを受け取り、それを自らの身の上と照らし合わせながら、それを染みこませていくことにあった。しかし、そのような交流が断たれると、信徒も伝道者も、物心両面で飢えや渇きに直面した。

戦場の中の首里教会(写真:同書より)

先述の通り1941年の日本基督教団設立時、沖縄県には17の教会があった(※)。また、伝道者は14名で、そのうち5名は日本本土出身であった。しかし、沖縄戦後に、この地域に残された伝道者は、沖縄島に佐久原好信牧師と老齢の親泊仲規伝道師、石垣島に新垣信一牧師と、合計3名のみになっていた。

佐久原好信牧師(写真:同書より)

それでは、その他11名の伝道者は、どうなったのだろうか。これらのうちある者は、沖縄戦が始まるまでに、牧師を廃業し、他の職に就いた。また、野町良夫牧師(沖縄支教区長)のように、陸軍に徴兵され、南洋戦線に派遣された者もいた。佐久原好伝牧師(好信の父)は、戦場死したといわれている。

那覇メソジスト中央教会(写真:同書より)

それ以外は、本土への疎開船の引率などの名目で、沖縄を離れた。沖縄戦間近になると、島外への民間人の疎開を進める政策がとられた。「敵性国家」の宗教であるとみなされたキリスト教の伝道者は、軍による監視下におかれた。それゆえに、伝道者たちは自らの意思にかかわらず、軍から一時的に役割を与えられ、沖縄島から排除された。そして、信徒たちも、沖縄島の島外や北部に疎開し、教会から離れていった。

このように「軍事化」した地域が戦場となることで、教会は、会堂を失い、信徒を失い、伝道者を失って、消滅・崩壊していったのであった。

こうして一旦(いったん)消滅したかに見えた南島の教会であったが、沖縄島中南部で激戦が続いている最中の1945年4月末、早くも中城村字島袋にあった民間人捕虜収容所では、百数十名を集めて、チャプレンがキリスト教の集会を開いていたという。そして、6月10日には、洗礼式も執行されたという。これらの人びとの中に戦前からの信徒がどれくらい含まれていたか、定かではない。

また、1940年代末までに、大島、宮古島、石垣島、喜界島で、教会形成のための新しい、着実な動きが見られた。いずれも、教会は消滅し、信徒は四散していたが、米軍による軍事占領という新しい試練に直面した南島の人びとは、それまでの信仰を受け継ぎつつ、それを日々新たにしながら、たくましく、戦後の歩みを始めたのであった。(『南島キリスト教史』194~197頁)

※1941年の日本基督教団設立時、沖縄県にあった教会を旧教派で分類すると、メソジスト(6)、旧日基(5)、バプテスト(4)、ホーリネス(1)、救世軍(1)。

一色哲(いっしき・あき)
1961年生まれ。大阪大学大学院文学研究科(日本学専攻)博士後期課程修了。博士(文学)。現在、帝京科学大学医療科学部医療福祉学科教授。著書に、学位論文「近代日本地域形成史の研究」(大阪大学大学院文学研究科、1997年)、同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』(共著、同朋社、1999年)、天理大学おやさと研究所編『戦争と宗教』(共著、同研究所、2006年)、直江清隆・越智貢編『高校倫理からの哲学』(シリーズ、共著、岩波書店、2012年)、直江清隆編『哲学トレーニング2社会を考える』(共著、岩波書店、2016年)などがある。

一色哲(いっしき・あき)著
南島キリスト教史──奄美・沖縄・宮古・八重山の近代と福音主義信仰の交流と越境
2018年5月30日発行
新教出版社
定価2200円(税別)

 






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