法話のほうが心に染みた 勝本正實 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.牧師の説教より、お寺で聞いた法話のほうが心に染みたのですが、キリスト者としては不適格でしょうか?(60代・男性)

考えられることが二つあります。まず聞くあなたの課題と、語る者の課題です。牧師の説教より僧侶の法話が心に染みたのを、信仰の問題とすぐに結びつけるのではなく、語る者の話(この場合、僧侶の法話)があなたの心に届きやすかったということです。普段聞いている牧師の説教であっても、心に届く時もあればわからない時もあります。それは聞く側の心の状態とも関連があります。同様にあなたが僧侶の法話を聞いた時、どのような心境にありましたか。

次に、話す側の課題を見ましょう。牧師や僧侶が、聖書やお経から現実の生活に即して語る場合と、聞く人の状況や必要に関わりなく語る場合では、聞く人の反応は変化します。説教の場合、神のみ心の真理や原則を話し、現実の生活への応用は自分自身でするという考えと、真理を踏まえて、応用にできるだけ時間を割くという考えが以前から教会にあります。あなたが通っておられる教会の説教は、どちらに近いでしょう。実は僧侶の法話にも同じことが言えるのです。法話も聞く人にとって、わかりやすいのもわかりにくいのもあって、それは上手い・下手とは決めつけられません。

私たちが説教や法話を聞くという時に、自分が聞きやすいことを聞き、聞きたくないことやわからないことを、無意識に避ける心理が働きます。ですから私たちは、話し手である牧師や僧侶の説教や法話の内容のすべてを心に受け止めるのではなく、聞きたいことや聞きやすいことを求めてしまうのです。小さい時から日本的、仏教的な考えを身に着けてきた私たちにとって、キリスト教より仏教的な話に心惹かれるのは当然のことでしょう。

ですから大事なことは、自分が何を求めているのか、何が真理と思われるのかを自分に問うことです。わかりやすい・わかりにくいは、その次の問題です。自分がキリスト者として不適格かと問いかけるのは、自然であり、健全な問いかけです。

かつもと·まさみ 1950年熊本県生まれ。聖契神学校卒業後、立正大学仏教学部(日蓮宗)を卒業。あわせて僧階課程を修了。その後、仏教大学で仏教学(浄土宗)を専攻。神道や民俗宗教の学びの必要を覚えて、神道宗教学会に加入。郷里熊本で牧会の後、1990年から千葉県流山市で開拓伝道を開始した。後に日本聖契キリスト教団に加入し、聖契神学校講師(比較宗教·日本教会史)を担当。著書に『日本人の生活習慣とキリスト教』『日本の宗教行事にどう対応するか』(いずれもいのちのことば社)など。

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