真理と愛(アガペー)――中国亡命知識人の精神的遍歴の到達点 劉燕子 【この世界の片隅から】

1989年の「六四」天安門事件で亡命を余儀なくされた政治学者の厳家祺(ゲン・カキ)は2022年、80歳で張伯笠(チョウ・ハクリュウ)牧師により受洗した。これは海外メディアで広まったが、中国では「厳家祺」という名は政治的にタブーとされ、ネット検索でその名前は遮断されている。

厳家祺は中国科学技術大学で数学・理論物理学を専攻するが、自然弁証法の研究から哲学に転じた。文化大革命の熱狂ではヘーゲルが『法の哲学』序で提示した「理性」と「現実」の統合的認識を踏まえ、「一切の非理性的現象は理性により理解しうる」と考えて資料を収集した(成果は1986年に妻・高皋と共編『文革十年史』で公刊し、その後も増補修訂を重ねた。邦訳は1996年出版)。

また西洋思想の禁書を「内密」に読み、政治を研究し、理論的に体制を改革しようと志した。毛沢東の偶像化とともに、盲従する愚民も問題であり、それを科学と理性によって根本的に改革しようと考えたからであった。

文化大革命の終息後、厳家祺は「北京の春」と呼ばれた民主運動に参加するとともに中国共産党に入党し、体制内改革のブレインとなった。1982年に中国社会科学院政治研究所が設立されると所長に就任し、さらに89年の天安門民主化運動においては知識人のまとめ役となった。

6月3日夜、人民解放軍の戒厳部隊が迫るが、厳家祺は天安門広場に留まり「民主の女神」像のもとで「民主大学」開学を名誉学長として宣言し(学長は北京大学作家クラス在籍の張伯笠)、「民主・自由・法制・人権」を講義し、理性的に非暴力で問題を解決しようとした。だが銃声が響き広場から離れ、翌朝に北京を脱出し、農村に潜伏した。この危難の中で科学も理性もまったく助けにならず「死の運命」が待ち受けていると痛感した。

ようやく「香港市民支援愛国民主運動聯合会」(支聯会)に救援された厳家祺は、「秘密通道」指揮の実動グループ「黄雀行動」で妻と香港に脱出し、フランスに亡命した。そして、パリで結成された「中国民主陣線」の第一主席を務めたが、94年から米国コロンビア大学の研究プロジェクトに参加した。

(右から)張伯笠、厳家祺、妻の高皋(2022年8月23日撮影)

当初、厳家祺は政治体制が変わり帰国できると楽観したが一党独裁は変わらず、むしろ異国で言語・文化・経済・心理の「四重の溝(ギャップ)」に直面した。誇り高き学者から社会的ステイタスを喪失し、物心両面で窮乏する亡命者になった。重層的な苦悩の中で周辺(マージナル)化、疎外により根なし草(デラシネ)に陥りながらも、生き方を模索した。

彼は「良知が神の声」、宗教は「反科学」と認識したが、亡命前からキリスト者の証しを聴き、亡命後は礼拝や祈祷会に出席する時もあった。ビリー・グラハム、趙天恩(ジョナサン・チャオ、中国家庭教会の支援者・研究者)たち著名な牧師、釈星雲(シャク・セイウン、台湾の禅僧の大師)、ダライ・ラマ法王と対話するなど、科学的な宗教の比較考察に努めた。その遍歴の到達点がキリスト教であった。民主化でいえば、「真理はあなたがたを自由にする」に通じるであろう。

中国人の亡命知識人の間でキリスト教が拡大している。それは天安門事件で社会主義や共産党に幻滅し、欧米の思想・哲学・文化を学ぶ中で、西欧式民主主義の源流にキリスト教があると理解したからであった。物質から精神まで全面的に人生が切断され、大海原を漂流する孤舟のように両岸(祖国と亡命先)に寄港できない時、教会は日常生活の支援でも隣人愛を示した。亡命作家の鄭義(テイギ)もかつては文化大革命で「敵への憎しみがなければ本当の同志愛は生まれない」と教えられたが、後に心が「柔らかく」なり愛(アガペー)が分かり受洗した。

劉燕子
リュウ・イェンズ 作家、翻訳家。中国湖南省出身。神戸大学等で非常勤講師として教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。専門は現代中国文学、特に天安門事件により亡命した知識人(内なる亡命も含む)。日本語編著訳『天安門事件から「〇八憲章」へ』『「私には敵はいない」の思想』『劉暁波伝』ほか多数。

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