なんでもやってみよう 橋谷英徳 【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】

2019年11月、カフェはオープンした。その途端、コロナ禍に見舞われたが、ほとんど中断することなく、働きは続けられてきた。

カフェというと、こじゃれたものを連想されるかもしれないが、そんなことはない。主に集われるのはご近所の高齢者で、地域密着型である。大人数で集まれる場所がかつてはあったが、今はもうない。かつては栄えていたが、今は空き家や空き地の目立つ、さびれてしまった旧市街地である。けれども皆、集まる場を必要としている。週に1度、集まって顔を見ておしゃべりをする。そのことで生きることが支えられる。ひとりきりでは誰も生きられない。

ちなみにカフェの働きは妻と私と2人で基本的にはおこなっている。実は学生時代にカフェでアルバイトをしたことがある。それが役立った。利益は施設の維持と福祉のために用いることになっている。飲み物の価格はない、<投げ銭>制を導入している。

毎週13時にオープンすると、ほどなくほぼ満席状態になる。方言が飛び交い、<ガヤガヤ>という響きがしてくる。人の奏でる、この音が好きだ。

子育て中のお母さんや、ひとりでまったりしたい人など、実にさまざまな人たちがやってくる。なかには教会とは知らずに来る人もいる。「ココ教会? あなた牧師? えっ~!」という感じの人も……。狭義の「伝道」はこちらからはしないように気をつけている。押し付けられることには飽き飽きしている人が多いから。でも礼拝堂を見学して帰る人も時々あるし、稀に教会の礼拝に来られる方もいる。まずは来てくださるだけで良いと思っている。まずは人として向き合うことがなければ何もはじまらない。出会う道が閉ざされている時代に、出会う場が欲しかった。

しかし、そういうことだけではない。中学生の時に初めて教会に行った。家の近所に教会があったが、なかなか入る勇気がなかった。教会に行く以前に教会に出入りしている人がいるかどうかがとても気になった。出入りしている人がいれば安心だと感じていた。こんな人がきっと今もいる。

そうでなくとも、教会は常に換気を必要としている。さまざまな人たちが足を踏み入れてくれることで風が入ってくるようになる。建物は換気なしには腐るが、教会も新しい空気が入ってこないと腐ってしまう気がする。教会のカルト化は空気の淀みから来るのかもしれない。

夕方になると暇になってくる。そんな時にやって来る人もいる。教会のメンバー、話を聞いてほしい人、相談事がある人……。知人に岐阜の山奥でカフェを営業している人がいる。彼は人が最低限集まってくる、暇なカフェを目指している。「人が集まると仕事が荒くなり珈琲がまずくなる。ゆっくり語り合う時間もなくなってしまう。だからあまり人は来ない方がいい。行列なんてとんでもない。食べていけたら良い」。「この人、変」と思われるかもしれないが、彼を題材に論文まで書いた経済学者までいる。新しい息吹を感じる。

カフェの働きは、ガチになってやっているのではない。ただやりたいから、楽しいからやっているし、続けられる。マジになってこんな記事を書いていると、理屈っぽくなってきて、なんだか変(笑)。シンプルに人と出会って関わることが、生きがいだ。聖書の話や生きること、ホントの話がしたい。がんじがらめになって生きるのはもう止めたい。それが本音だ。

同じようにしてみたらいい、などと言うつもりは毛頭ない。ただ、やりたいことがあれば、なんでもいいから、やってみたらいいのではないか。危機の時代の中でこそ、できることがきっとある。やりたいことがあって押し殺していると、苦しい。今、田舎は良いと思う。新しい時が来ている。

橋谷英徳
 はしたに・ひでのり 1965年岡山県生まれ。神戸学院大学、神戸改革派神学校卒業後、日本キリスト改革派太田教会、伊丹教会を経て、関キリスト教会牧師。改革派神学校講師(牧会学)。趣味は登山、薪割り。共著に説教黙想アレテイア『エレミヤ書』他(日本キリスト教団出版局)。

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