注解書も解釈いろいろ 櫻井圀郎 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.聖書の注解書を読むと、解釈が異なる部分があります。どれを信じればよいのでしょうか?(40代)

あらゆる学問は日進月歩という性質をもっていて、これが最終結論であるという点に到達することはありません。それが人間の有限性ということです。聖書学や神学も人間が取り組むものである以上、その制限を超えることはありません。

一方、人間社会のあらゆる文化には多面性や多様性がみられ、決して一つの考え方や行動様式にまとめられることなく、多くの立場があります。当然、それぞれの立場によって、一つのことも解釈も異なります。

「十人十色」という言葉があるように、百人いたら百人の考え方が異なるのが自然で、それを無理に一つに統一しようとするところに暴政が起こります。多くの場合、そのような暴政のもとでは正義が葬られ、真理が歪められてきました。真理の発見は思想や良心の自由が必要です。

キリスト教会も、同じ一つの聖書を規範としながらも、歴史的、地理的、民族的、神学的、実践的な考え方の違いなどから、多くの教派にわかれています。一つの解釈に統一すれば教会がまとまってよさそうですが、それを有限な人間の手に委ねるのは危険です。

私は、物事の真理は、多様性の中から発見されるものであると考えています。逆に、異見や異説を阻み、批判や批評を許さない社会には真理はないものと考えます。お尋ねの聖書の注解書の多様性も、そのように理解するのが適切ではないでしょうか。

むしろ一つの解釈に統一することに危惧を感じます。もちろん教会や教派・教団が信徒に一定のガイドラインを示すのは許されるとしても、聖書解釈を限定してしまうのは危険でしょう。

聖書が「生ける神の言葉」であるとするなら、石膏の像のように固められたものではなく、機械のような言葉ではなく、それぞれの時と場において語られる人格的な言葉であるはずです。一人ひとりが真摯に聖書と取り組み、苦悩し、試行錯誤を重ねるところに、聖霊の働きがあるのに違いありません。

さくらい・くにお 1947年、三重県生まれ。名古屋大学法学部卒業、同大学院博士課程(民法専攻)、東京基督神学校、米フラー神学大学大学院神学高等研究院(組織神学専攻)、高野山大学大学院(密教学専攻)を修了。日本長老教会神学教師、東京基督教大学特任教授。著書に『日本宣教と天皇制』『異教世界のキリスト教』(いずれもいのちのことば社)、『教会と宗教法人の法律』(キリスト新聞社)ほか多数。

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