大斎節(四旬節)と食前の祈り 與賀田光嗣 【宗教リテラシー向上委員会】

勤務校では、北海道や沖縄に数日間出かける実習という日がある。この実習の旅のしおりに一筆を頼まれた。毎食ごとの食前感謝の祈りを記すためだ。その日の学びと安全を思いつつ、食前の祈りをささげる。キリスト教主義学校であることを思わされる機会だ。

食前の祈りといっても、さまざまなバリエーションがある。私が心がけているのは、「今ここにある食事が心と体の糧となるように」という祈りだ。また「飢えている人々に心と体の糧が与えられるように」、つけ加えると「この糧にあずかった私たちが、誰かの心と体の糧として遣わされるように」という祈りである。

糧の大切さを思い知るのは、自分が食べられない状況になった時だ。先日、私含め家族全員がコロナ陽性となり、まともに食することができなくなった。コロナにせよ、戦争にせよ、食べることができない人々が世界には数多く存在する。これから大斎節(四旬節)が始まるが、この期間は伝統的に断食と節制の季節とされてきた。キリスト教の断食や節制は、単に自分の徳を高めるためにするのではない。身体的な飢えを通して、心と身体において飢えている人々に寄り添い、真の食い物である主を思うためである(毎聖餐式前に朝食を抜き、聖餐をその日の最初の食事とする、という伝統もある)。

人間は飢えの意味を、孤独の意味を、交わりの意味を深く考えねばならない。主イエスは独りで寂しいところへ退かれ、いつも祈られていた。主イエスは「大食漢で大酒飲み」(マタイによる福音書11章19節、ルカによる福音書7章34節)と言われるように、交わりを大切になさる方だった。実に人間は、身体においても、魂においても、さまざまな意味で飢える存在なのだ。

このことを聖書の歴史はよく知っており、食事の際に常に確認してきた。食事の際、その家の主人がパンを取り、感謝の祈りをささげ、裂いて、配るという所作があった。5000人のパンや、最後の晩餐、そして聖餐式にて、この所作を私たちは知っている。この所作の中心は主ご自身である。人間が生きるための真の食卓の中心は、主ご自身であるのだ。

すると「主の祈り」の「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」の一文の重さがよく分かる。「私の糧を」ではなく「わたしたちの糧を」と祈れ、と主は教えられている。自分だけの糧を口にする時、そこには確かに苦みが存在するのだ。荒れ野にて真の断食をされた主が「人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイによる福音書4章4節)と言われた意味がここにある。

ラテンアメリカのある祈りが、「おお主よ、飢えている者にパンを与え、また、われわれパンを持つ者に、正義への飢えを与え給え」と教えるのは示唆的である。

つまり日々の食卓の中心は主ご自身である。さらに、この糧(ギリシャ語でアルトス=パン)は主ご自身である。パンが持つ苦さと喜びとが、十字架と復活において明かにされていく。神との交わり、人との交わりの中心に、命のパンである主イエスを見出すこと、ここから私たちは「わたしたちのパンを」と祈ることができるのだ。

いつも以上に食前の祈りに心を傾け、今年の大斎節を共に歩んでいきたい。

 

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

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