日本聖書協会 日本文学者、言語学者招き広島でセミナー

日本聖書協会(石田学理事長)は11月6日、エリザベト音楽大学ザビエルホール(広島県広島市)で「聖書のことば・聖書とことば」と題する聖書セミナーを開催した。講師として佐藤裕子(フェリス女学院大学文学部教授、『聖書協会共同訳』日本語担当翻訳者、五書・歴史書編集委員)、高橋洋成(東京外国語大学アジア・アフリカ文化研究所特任研究員、『聖書協会共同訳』原語担当翻訳者、五書・歴史書編集委員)の両氏が登壇し、聞き手を飯島克彦氏(日本聖書協会編集部主任)が務めた。対面とオンラインをあわせ約100人が参加した。

同セミナーは2018年に発行された新翻訳『聖書協会共同訳』をもとに原語、翻訳、文学から見た聖書の魅力について、専門家の2人が語り合ったもの。主に「ヘブライ語の特徴と響き」「原語からの翻訳・日本語からの翻訳」「イエス時代の言語生活」「近代日本文学とキリスト教」「近代の女性作家とキリスト教」「聖書のことば・聖書とことば」について語られた。

『聖書協会共同訳』と『新共同訳』の変更点として、「主語の変化」が挙げられている。ヘブライ語では必ず主語を挿入しなければならない文法上の特徴がある一方、主語の伴わない文章であっても会話は成立し得る。その点から高橋氏は「何を主語として指しているのか分からない単語は聖書にいくつもある。文法上、仕方なく主語を挿入したものである。その部分の翻訳には苦労した」と述べた。

また、聖書は朗唱されることも想定されており、声に出して歌うことで一層その世界観を理解することができるとして、会場で創世記(1章1~5節)の朗唱を実演した。

ヘブライ語では「言葉遊び」が多用されており、日本語に翻訳するとその特徴が薄れてしまうため、聖書翻訳の際はなるべく原語に忠実であることを心がけたと高橋氏。例えば創世記25章26~34節に登場するヤコブは、ただの人名ではなく「ずる賢い」「かかと」「追いかける」「報い」「守られた者」と数多くの意味が存在する。古代の人々はこのような言葉遊びを用いて、ヤコブに関する物語を伝承してきた。『聖書協会共同訳』では脚注にこれらの意味を記すことにより、なるべく読者がヘブライ語の世界観を知ることができるよう工夫が施されている。

高橋氏によれば、イエスが生きた時代の言語生活を示す最たる例は作中の言語がすべてアラム語とラテン語に統一された映画『パッション』(監督:メル・ギブソン)であり、19世紀までの研究ではイエスの時代にヘブライ語はほとんど使用されていなかったとする見解が標準的だったという。しかし20世紀にいわゆる『死海文書』が発見されて以来、実はイエスの時代もヘブライ語を用いていたのではないかと議論が盛んになった。またイエスがアラム語を話していたということはある程度認知されているが、肝心のアラム語に関する資料は4世紀以降のものとなり、当時の資料ではほとんど発見されていない。

一方、高橋氏はイエスが実は多言語話者であった可能性も指摘する。イエスが活動した地域は地理学上アラム語圏とギリシャ語圏が重なり合う部分であり、一般的に多くの人々が複数の言語を使用していた可能性があるという。

没後150年を迎えた森鴎外は、近代の日本人作家の中でもキリスト教との関係性が非常に色濃い人物の一人。佐藤氏は鴎外の『かのように』という作品で、学問と信仰の関係性について記している部分に注目。鴎外によると宗教は教育において必要であり、学問の研究においても追求すべき対象である。一方で一部の「信じなければ知ることはできない」とする立場には否定的で、そのように主張をする者は「危険思想家」であると批判している。

近年、女性作家のめざましい活躍が見受けられる。佐藤氏はその先駆け的存在として若松賤子(しずこ)を紹介した。1864年に会津で生まれた賤子は戊辰戦争の影響で戦争難民となり、横浜の家庭で養子として迎え入れられる。その後、横浜海岸教会で受洗し、母校のフェリス女学院で教師となる。賤子の業績として日本初の本格女性誌『女学雑誌』への創作・翻訳を掲載し続けたことが挙げられる。その中で佐藤氏は、賤子が寄稿した作品「花嫁のベイル」(アリス・ケアリー作)は賎子自身のパーソナリテティと日本の近代史を考察する上で非常に重要な作品であると述べた。そこにはこのような一節がある。

わが心をとくと見給へ、その輝きの最も悪しきところを見給へ。

これを佐藤氏は「誰かの規定ではなく、一切から自立した一つの自己人格」を表現していると評価し、当時の日本ではこのような近代的思想はまだ詳細に論じられていなかったため、それを紹介した賤子の先見性は驚くべきものがあったと述べる。

開催地が広島であったこと、また昨今のロシアとウクライナの軍事衝突を踏まえ、改めて「平和」とは何かという議論もなされた。高橋氏は旧約聖書において「祝福は神から、災いはサタンから」というような区別は見られないとし、ディカッションでは以下のみ言葉を引用した。

 もし、裁きの剣、疫病、飢饉などの災いが私たちに臨むなら、私たちはこの神殿の前で、あなたの前に立ちます。御名がこの神殿にあるからです。苦難の中からあなたに叫び求めるとき、あなたがそれを聞き入れ、救ってくださいますように。(歴代誌下20章9節)

その上で、「人間には本当の意味で何が祝福か災いか、分からない」と述べ、その理由について「人は善意から悪を行う存在」であることを指摘した。では、人間は何を基準に生きればよいのか。高橋氏は以下の新約聖書の言葉を引用した。

 すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(マタイによる福音書19章16~17節)

ここで語られていることは、人間が自己自身で何が達成できるかではなく、誰を見つめるべきかという議論である。高橋氏は「罪ゆえに何が善で、何が悪か人には分からない。しかし善いお方を見つめることはできる。イエスがそれを指し示しておられる。善いことをするのではなく、善い方を見つめる。それがキリスト者と教会のあり方」と述べた。また、マタイによる福音書から「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5章43~44節)を引用し、「世界情勢のために私たちは祈っているか。祈ることが善いことかは分からない。しかし私たちは善い方のもとに集い、敵のために祈らなければならない」と述べた。

質疑応答では、「日本語訳聖書はなぜ複数あるのか」との質問に対し高橋氏が、「『協会共同訳』は教会で朗読するための翻訳、『新改訳2017』は原語が透けて見える翻訳というように、翻訳にはそれぞれの目的がある」と応答した。

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