どこかで、だれかが、祈ってる 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

あけましておめでとうございます。年頭にあたり、家門繁栄、子孫長久、諸災消除、万福多幸をお祈り申し上げます。

お正月には皆さま所属の場所場所で、「新年の祈り・礼拝」がなされていることだろう。お寺では新年の法要「修正会(しゅうしょうえ)」が勤められる。「お正月」に「修」められる「法会」なので、「修正会」。新しい年へ臨むにあたり、仏さまの教えを聞かせていただく。過ぎた年に感謝し、迎えた年を無事すごせますようにと祈祷をする。天下泰平を祈るのである。禅宗寺院では「大般若経の転読」が特にお勤めされる。折本型の経典をアコーディオンのように空中でパラパラと広げる。複数人の僧侶が読経しながらパフォーマンスさながらの法要となるため、なかなか壮観である。

私が修行道場にいた時、お正月の朝といえば大般若経のご祈祷であった。お正月、それも朝早くからの法要に参拝される方々がいらっしゃることに驚いたものだ。その法要は僧侶ではない一般の方も見ることができるのだが、そもそも存在自体が広く知られてはいないし、わざわざお正月に遠出をして参拝をなさる方々のお志には、勤める側の私の方がむしろ頭の下がる思いだった。

2月の法要は「修二会(しゅにえ)」となる。奈良東大寺では1250年以上、毎年お勤めされる「修二会」がある。別名「おたいまつ」「お水取り」とも言われるが、たいへんな賑わいで、筆者もご縁をいただいてお堂の中で間近で参拝させていただいたことを覚えている。仏さまに過ちを悔いるとともに、天下安穏、五穀成熟、万民豊楽を祈願する。奈良時代から絶えることなく毎年厳修されている。平氏による南都の炎上の時も、江戸時代の二月堂の焼失の時も、戦時中の空襲など、さまざまな苦難の中でも祈りは続けられている。

選ばれた人々が身を清め、一定期間こもり、1日に何度も祈願するのだ。頼んでもいないのに、人知れず、暗いお堂の中、祈りを続ける人々がいる。ありがたいことである。そう思えば、お正月に大般若のご祈祷へ参拝していた人にとって、修行道場にいた私自身もそのような存在として見られていたのかもしれない。

ただ、このような祈りだけが祈願のすべてではないのだろうとは思う。いやむしろ、イベントごとだけではなく、例えば日常の単純作業にも祈りを込めたいものである。この手洗いで感染が広がらず、自分も周りの人の健康もどうか損なわれませんように。この書類を渡す時に、あなたよどうかお幸せにと胸の中でつぶやきたい。このメールで、関わる人たちが爽やかな気持ちになれますように。自分の日常茶飯事を祈りへと仕向けていく精進がなければ、すなわち「願い」が行われなければ、「祈り」へと変容していくことはないようである。「祈るだけでコロナがなくなるのか、内紛がなくなるのか、貧困がなくなるのか」。このように言う人にとっての祈るとは、どこかのだれかの祈りでさえなく、ただの戯言にしか見えないのだろうか。

コロナの影響で中止していたものが少しずつ再開し始めている。意味があるかないか、効果があるかないかを問うことにこそ意味もないし、効果もない。今年も世界の安穏を願うばかりである。

向井真人(臨済宗陽岳寺副住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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