行為が私を証明し続ける 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

仏教では、自分という存在を、人や物との関係性の中に見出す。どのような関係性が育まれているのか。特に、どのような行為をするかしないのか。行為によって今があると考える。私はこういう人間性なのでこういう行為をする、というよりも、行いによってそんな私がいる、と強くとらえる。

行為がこの私はどのような人間であるのかを証明し続ける、と表現できるかもしれない。「弱きにも強きにも生命あるものに刀杖(つるぎ)を加えず、自らも殺さず、他をも殺さしめず、我かかる人を婆羅門とよばん」(友松円諦訳『法句経』405)

どのような弱さや強さを抱えている者を前にしても、暴力を振りかざすことをしない。身体での振る舞い、口から出る言葉、心に思うことすべてにおいて、しない。誰かを傷つけてはいけないし、誰かの手によって自分を傷つけられてはいけないし、誰かに誰かを傷つけさせない姿が理想なのだ。

もちろん日々過ぎゆく中で、できない時、しなかった時もたくさんある。だからこそ日常が修行であり、日々常にチェックをして、あぁ申し訳なかったなと懺悔を重ね、精進に励む。したり、しなかったり、常にこの私とは揺れ動き続ける存在なのだ。すなわち、この人はこういう人間だからこんなことをした、と人間性を固定することはできない。

例えば慢性疾患をわずらう患者のあるべき姿などないように。「病気が治ったら何をしたいですか?」 寛解といって完全な治癒などないと分かっているにもかかわらず聞いてしまうこの質問には、病人なのだから病人らしく振る舞うべき、という固定化、質問者の考える快復度合いまで病気が治らなければ病人は患者然としているべき、という押し付けがある。患者側も「その時には世界1周旅行をしたいですね」などと患者としての役割に入り込んでしまう。はたまた、カルトに人生を狂わされた人間だからこのような凶行に及んだ! 政治家なのだから身の回りはクリーンであるべき! 人はなぜこのような固定化、押し付けをしてしまうのだろう。

理由は、その方が楽だからだろうか。そうでもしなければ生きるのが辛いから、やっと身に付けた処世術だからか。確かに、慣習、世間や大多数の声に乗ること。枠にはまっていくことは容易く、生きやすい。些細な違和感をスルーし、疑問を呈さず、こころを閉じないと私たちは生きていけないのかもしれない。いや違う。むしろその上で、すべて分かりきっていて、見て見ぬ振りをしている、愚かでいる権利を行使しているのだ。しかし、本来人間の姿はそうではない。臨済宗では人はみな仏であると言う。本来清浄とした仏心を有しており、発揮することができる。それ故に日常がなによりの修行の場であり、良き習慣を行い続けねばならない。どうだったろうかと日々反省し続けることを勧めるのだ。自分の行為に照らされて、そんなことをする自分の姿があぶりだされるのだから。

この人はこんな人間だからこのようなことをしたのだ、と人の生き様を固定化しない。カルトとは自分には関係ない世界だ、と決めつけない。霊感商法とは悪質であり、個人としても社会としてもなんらかの対応をしていく。とんでもないやつだと悪口や陰口はしない。世の理を知り、己をよく調えよ。相手を思いやり共に喜びあわれむ言葉をかけ、かといって意識や感情に振り回されない、とらわれない心を持て。世界はその身をもって私たちに教えてくれている。くもりなき眼で見つめ続けることが一人ひとりに求められている。

向井真人(臨済宗陽岳寺副住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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