「チャペル」が体現するキリスト教主義学校の使命 與賀田光嗣 【宗教リテラシー向上委員会】

私の勤務校では大学と高校にチャペルがある。チャペルでは日々の礼拝などがささげられているが、そもそもなぜこの空間のことを「チャペル」というのだろうか。

「チャペル」(chapel)という英単語はフランス語の「シャペル」(chapelle)に由来する。この「シャペル」の語源は、フランス語で頭巾を意味する「シャプロン」(chaperon)である。司祭が着る式服のフード(アミスと呼ぶ)がそれに該当する。これは「頭巾付きの外套」を意味するラテン語の「カッパ」(cappa → capella=俗ラテン語)にまでさかのぼる。英語読みだと、コープとなり、聖職者が着る服の一つがそれである。

では、このカッパ、頭巾付きの外套が、なぜ礼拝堂を意味するようになったのか。トゥールのマルティヌス(315年ごろ~397年)という主教がいた。マルティヌスの外套は、後にとある礼拝堂に納められた。ここからチャペルという名が付けられるのだが、それはマルティヌスの外套に、とある謂れがあるためである。

マルティヌスはもともとローマ帝国の兵士だった。ある雪の寒い日、城の外で凍える物乞いと出会った。心が痛んだマルティヌスは、自分の着ていた外套を二つに引き裂き、一つを物乞いに与えた。その夜、マルティヌスの夢の中に先ほどの物乞いが現れ、その物乞いこそがイエスなのだ、ということを告げられるのである。

ここには、一種の逆転がある。正しいことや尊敬されるようなことをすること、立派な姿に神を見るということではない。このような凍える人の内に神を見る。凍えるその姿に駆り立てられ、気が付いたら何か行動を起こしている。自分の身を割いて、その人と分け合っている。

これはクリスマスの物語、主イエスが来られた物語に通じるものである。主は幼子としてこの世に来られた。幼子はそのままだと何もできない。誰かの愛情がないと生きていけない。神はこのような形で私たちを愛に駆り立て、その意味を、まさに私たちの身をもって伝えのである。

愛の意味を身をもって知ったマルティヌスは、この後、洗礼を受ける。そして彼は聖職として召され、主教として働くこととなった。

主教職の役割とは、単なる宗教的指導者ではない。社会的弱者、農民の救済、法的、社会的性格も有していた。ローマ帝国の中で主教とは、一定の裁判権を与えられ、皇帝はじめ帝国の官僚と交渉し、貧者を守ることも主教の仕事であり教会の仕事だったのである。民族、宗教を問わず、すべての人を差別から守ることが教会の使命なのだ。

そうすると「チャペル」とは、まさにキリスト教の精神を形にしたものだ。チャペルの中に入ると、十字架が私たちを迎え入れる。主イエスは釘打たれたその手を広げながら私たちを迎え入れる。神は自らを引き裂かれるほどに、私たちを愛してくださった。その十字架の眼差しにより、私たちは自分自身の弱さや誰かの痛みに気づかされ、何かを促される。

キリスト教主義学校には「チャペル」が存在する。それはキリスト教教育とは何かということを、思い起こさせる存在である。混迷を極める現代においてこそ、キリスト教教育の使命を再考したい。

 

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

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