【映画評】 信従のまなざし、遠流の明晰。 『茲山魚譜-チャサンオボ-』

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 黒山島(フクサンド)は韓国南西部、朝鮮半島から100キロほど沖合に浮かぶ島である。日本の佐渡や隠岐と同じく、古くから流罪地とされてきた。この島へ1801年に流された天主教徒(カトリック)の両班、丁若銓(チョン・ヤクチョン)が本作の主人公となる。

 丁若銓はこの遠流の地でもうひとりの主人公、漁師青年の昌大(チャンデ)などに学び、朝鮮における博物誌のさきがけ『茲山魚譜』を著した。黒山島の豊かな自然をほぼ全編の背景とする本作では、モノクローム映像美の醸す高い精神性が活かされながら、この『茲山魚譜』成立の過程が悠揚と描きだされる。

 イエズス会の活動に対し柔軟であった李氏朝鮮第22代国王・正祖が没した翌1801年、幼少の純祖を擁立した貞純王后(大妃金氏)により天主教徒弾圧事件、いわゆる辛酉教獄が起こされた。これにより多くの南人系実学者が投獄され、のち列福される清国人宣教師・周文謨を含む300名余りが処刑される。この事件は、1万人以上の犠牲を出した1866年の丙寅教獄に比べると宮中における勢力争いの側面も色濃く、正祖・純祖・貞純王后らも登場する本作の序盤では、こうした歴史背景が端的に描かれる。

 丁若銓は三兄弟の長男で、次男・丁若鍾は信仰に殉じ大逆罪で刑死、三男・丁若鏞の半島南西部・康津郡への配流は18年に及んだが、流刑下を含む生涯に著した書籍は500冊に及び、今日では李氏朝鮮最高の実学者とされる。丁若鍾が処断時仰向けに天を仰いだという逸話も再現する本作は一方で、当世のキリスト教迫害模様を巨視的に描く金薫(キム・フン)による原作『黒山』を大胆に換骨奪胎し、博物誌『茲山魚譜』の成立過程のみへと物語を収斂させた。

 博物学といえば今日の日本では、大英博物館に学んだ南方熊楠を始め西洋由来のイメージが強いものの、江戸末期に蘭学と結びつく形で日本の医学発展に寄与した本草学もまたよく知られる。「本草」とは「草石の性に本づくもの」を意味し、中国古代の神仙思想すなわちシャーマニズムやアニミズムを発祥とする学としての体系は、幾度もの編纂を経て明代の1596年李時珍『本草綱目』へと結実し、広く東洋世界へ甚大な影響を及ぼした。日本の本草学同様、『茲山魚譜』もまたこの『本草綱目』の影響下に属している。これは『本草綱目』の分類指標を受け継ぐことからもうかがえるが、とりわけ『茲山魚譜』が漢文によってのみ構成される点は注目に値する。映画では本書をめぐり「図」や「図鑑」といった字幕も数度表れるが、現実の丁若銓が抱いた関心は自然世界の“言分け”、すなわち魚類や貝類の造形描写ではなく言語による調査分類にあり、このことは彼が稀代の実学派学者たる所以でもあろう。著作『茲山魚譜』冒頭にも登場する漁師青年・昌大と丁若銓との、映画における舟上や棲家での会話は、昌大の実経験に基づく知識が丁若銓の論理思考により整理・明瞭化され一層深まる様が瑞々しく描かれる。

 ちなみに金薫の原作『黒山』では、朝鮮本土と黒山島を行き来する帆船の船主として文風世という人物が登場するが、映画『茲山魚譜-チャサンオボ-』では代わりに文風世の主要なモデルとなったであろう実在のエイ漁師・文淳得(ムン・スンドゥク)が登場する。文淳得は琉球へ漂着後、さらに呂宋(フィリピン)へ漂流し、マカオから陸路南京・北京を踏破し琉球語ほか各国語を習得のうえ1805年に帰国した人物で、日本ならば大黒屋光太夫などに相当する存在だ。地理学的関心の拡張を誘ったこの人物を加える点もまた、『茲山魚譜』の博物誌的価値へ焦点化した映画版ならではの良趣といえるだろう。映画では省かれているが、丁若銓はこの文淳得の体験談を整理し『漂海始末』に纏めている。

 なお原作『黒山』は、日本語訳で約400ページにも及ぶ長編小説で、1801年の辛酉教獄を多層的かつ濃密な筆致により仔細に描きだす。そこでは弾圧者側・貞純王后とその下女たちや、三兄弟の甥にあたり軍の介入を列強へ求める密書「黄思永白書」を著した進士・黄嗣永、潜伏する各層のキリスト教徒や諜報の網を張る役人、遠く北京にあって朝鮮の動向を憂うアレキサンドル・ド・グベア司教など極めて多くの視点から物語が描かれ、『茲山魚譜』をめぐる顛末は主要ながらもこれらの一エピソードにしか過ぎない。朝鮮本土と黒山島を往来する船主・文風世の、権力者の意向にも面従腹背する描写は倭寇にも通じる独立独歩の航海者の気風を感じさせ、黄嗣永に請われて旅立ち北京で受洗する馬夫・馬路利をめぐる過酷ながらも静謐な情景描写と併せ、力強く『黒山』の作品世界を輪郭づける。

 これに対し映画は先述のように、『茲山魚譜』の成立過程のみへ焦点化することで2時間の尺を無理なくまとめ上げる。素晴らしい熱演をみせる丁若銓役ソル・ギョングおよび昌大役ピョン・ヨハンとともに、近年の傑作韓国映画には高確率で顔を覗かせる名脇役であり丁若銓の世話をする寡婦役イ・ジョンウンの軽妙な演技も忘れがたい。映画ではユーモラスに描かれるこの寡婦は、原作では順毎という名で登場する。彼女と丁若銓との関係性描写は、自然を全的に捉える『茲山魚譜』のまなざしに主人公をも巻き込む高い象徴性を孕み込む、『黒山』の白眉といってよい一幕となっている。

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 李氏朝鮮時代を舞台とする作品は、韓国の映画やTVドラマにおいては従来より定番で、たとえば本作冒頭に登場する第22代国王・正祖の登場作品に限っても視聴率40%を記録したドラマ『イ・サン』を始め『風の絵師』『秘密の扉』など枚挙に暇なく、本作『茲山魚譜』監督イ・ジュニクの2015年作でソン・ガンホが第21代英祖を演じる『王の運命 -歴史を変えた八日間-』にも正祖は登場する。しかも世宗や英祖など正祖を遥かに凌ぐ登場頻度を誇る王も少なくないのだが、これら無数の映画・ドラマ群はいずれも王宮ないし両班(貴族階級)を物語の主軸とするもので、庶民の生活や離島の風土に焦点化した作品は極めて珍しい。この意味で韓国史劇映画系譜上の画期作となる可能性をも有する本作が、否応なく社会全体が変革を迫られるこのコロナ禍下というタイミングで公開されることの意義は小さくない。

 大妃金氏勢力による天主教徒弾圧はその実、政治腐敗が横溢し、漢城(ソウル)近郊の仁川(インチョン)にはすでに列強の蒸気船が現れ李氏朝鮮政権へ抑圧を加えるなどといった統治や社会秩序めぐる乱れの根本原因を、“妖しい”西学すなわちキリスト教に見いだしてこれをスケープゴート化する、政権の延命策ともいえる一方的な迫害であった。その苛烈さは安土桃山期の一向宗や比叡山焼き討ち、江戸初期のキリシタン弾圧を思わせるとともに、特定の信仰集団が悪の権化と目され排除対象化した点ではナチスのユダヤ排斥をも想起させる。

 500年続いた王国の終わりと日帝期、朝鮮戦争と南北分断。いや朝鮮に限る意味は皆無だろう。丁若銓が魚や貝の姿形の向こうに見据えたものは、その後どのような変化を遂げただろうか。現代の我々にとっての何にあたるか。『茲山魚譜 チャサンオボ』『黒山』の圧倒的な余韻を背に思念はめぐりゆく。 

(ライター 藤本徹)

『茲山魚譜-チャサンオボ-』”자산어보” “The Book of Fish”
公式サイト:https://chasan-obo.com/
11月19日(金)、シネマート新宿ほか、全国順次ロードショー。

主要参考文献:金薫(キム・フン) 『黒山』 戸田郁子 CUON 2020

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