苦難のなかの「からし種」――中国カトリック教会が歩んだ道 中津俊樹 【東アジアのリアル】

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「リアル」というには多少、古い話になる。21世紀を迎えて間もないいまから十数年前、私は中国南部最大の都市である広東省広州市に滞在していた。その間、毎週日曜日には同市最大のカトリック教会である石室聖心堂教会=写真下=での英語ミサに参加していた。

そんなある日のことである。私は石室聖心堂教会での中国語のミサに参加することになった。初めての中国語ミサは、世界共通のミサの式次第に従い進んでいった。中国人司祭が奉献文を読み上げる間、私はふと自分の隣の席に目をやった。そこには現地の老婦人が一人座っていた。老婦人は手に小さなロザリオを握りしめ、聖母マリアへの祈りを広東語で捧げていた。この光景自体は、カトリック教会であれば特段珍しいものではない。だが、この老婦人の姿を目にした時、私は自分の心が大きく揺さぶられるのを感じた。

1949年10月1日、毛沢東が率いる中華人民共和国が成立した。共産党が主導する新政府は臨時憲法としての「中国人民政治協商会議共同綱領」で、「宗教の自由」を掲げていた。しかし、その一方で新政権による宗教への圧迫は着実に進んでいた。当然のことながら、カトリック教会も例外ではあり得なかった。

新政権による圧迫は教会自体の消滅ではなく、共産党の管理下に置くことを意図して進められた。はじめに、外国人司祭・修道者が何らの根拠もないままに「アメリカ帝国主義のスパイ」として追放された。それは、当時の朝鮮戦争(1950~1953年)とも相まって正当化された。続けて、教会内部の中国人司祭・修道者と信徒の間に、ローマ教皇庁を頂点とするカトリック教会の位階制からの離脱と新政権への支持という、いわゆる「三自」を掲げるグループが出現した。

同時に、ローマ教皇との一致を保ち続けることを望む中国人司祭・修道者と信徒への圧迫が始まった。その過程では、「三自運動」への協力を拒んだ上海教区司教(後に教皇庁枢機卿)のイグナチオきょう品梅(ひんばい)ら中国人司祭・修道者が、逮捕された。そして1957年7月、「愛国的」司祭・修道者による「中国天主教愛国会(愛国会)」が成立するに及び、中国のカトリック教会は共産党と政府の監督下に置かれた。

しかし、それは「愛国会」がすべての苦難から免れたことを意味するものではなかった。中国全土を混乱に陥れた「プロレタリア文化大革命(1966~1976年、文革)」の中で、「愛国会」の司祭・修道者や信徒は信仰ゆえに迫害の対象とされた。「帝国主義者の手先」という非難が、すでに共産党の管理下にあるはずの彼らに向けられた。ここに、中国のカトリック教会はその立場に関わりなく、信仰ゆえの苦難を共にすることとなったのである。

石室聖心堂教会は、文革期に活動した「紅衛兵」が広州市内の「資本家」に対する家宅捜索の過程で没収した財物を収容するための、物置小屋とされた。文革が1976年に終結し、1978年に中国が改革開放政策に移行した後も、状況が本質的に改善されたわけではなかった。

かつて石室聖心堂教会で私の隣で祈りを捧げていた老婦人は、このような歴史の中で、信仰を守り続けてきたのである。それはまさに、中国のカトリック教会の苦難の歴史と共に歩んだ道程に他ならない。過酷な時代にあって、「一粒のからし種」ほどの信仰を文字通り命懸けで守りながら生き抜いてきたであろう老婦人の姿を見ながら、私は中国のカトリック教会と信徒が歩んできた道程を思い、心が揺さぶられるのを感じていた。そして、自問自答した。「自分は、この人たちのような信仰をもってキリストに向き合っているだろうか?」と。

中津俊樹
 なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。

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