【宗教リテラシー向上委員会】 不要不急の世界と神学 與賀田光嗣

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4月に5年の任期を終え、無事英国から帰国した。新任地の一つ、神戸国際大学附属高等学校は甲子園出場校であるばかりでなく、サッカーや柔道、ハンドボールなど、全国クラスのスポーツ強豪校だ。そのせいか「押忍!」の勢いで響く「アーメン!」も特徴的だ。

本校には蔦がからんだ煉瓦造りのチャペルがある。開校以前は木造の聖堂だった。そこを起点に高校、大学、修道院が作られた。コロナ以前には学校イースター礼拝などは、チャペルを管轄する大聖堂で行われていた。チャペルは大聖堂の伝道所も兼ねており、日曜日には近隣の人々が集まり礼拝が捧げられている。

兵庫県は緊急事態宣言下にある。神戸教区のガイドラインに則り、神戸市内の教会は礼拝中止となった。帰国して2カ月近く経つが、対面での主日礼拝は一度しかない。現在は聖職の家族のみが出席し、主日を守っている。YouTubeでは各教会の司祭による説教動画が更新されている。

英国と比較して日本の「礼拝中止」はさまざまな問題を抱えている。ロックダウンにより「諸宗教の集会」が規制されたわけではない。日本で求められるのは保障なしの自粛であり、「不要不急」という言葉の定義があやふやなままに宙に浮いている。

多くの小中学校、高校では対面で授業が行われている。マスクを着けただけの日常がそこにあるように私の目には映った。日本の小学校に通い始めた娘は、毎日のように新しい経験を私に教えてくれるが、なかには驚きを与えるものもある。たとえば、掃除当番で専用のマスクや手袋もなくトイレ掃除をすることだ。小学校に尋ねると「県教育委員会としてトイレ掃除への問題はない」とのこと。排泄物からのウイルス問題は世界中で取り上げられているというのに、だ。

一方では「マスクを着けただけ」の日常が広がり、他方では「礼拝中止」の報が届く。すると自分の信仰生活は「不要不急」なのか、単なる趣味の領域なのか、生活の根幹ではないのか。信じる宗教を問わず、多くの人々が憤慨する気持ちも理解できる。

宗教が個人の内面の問題へと押しやられる近代/啓蒙主義の時代において、「不要不急」という言葉は大きな傷跡と、後に引く混乱を日本の教会に、または「宗教」に与えているのではないか。

個々人が「不要不急」の選択を強いられるというこの枠組み自体を、私たちは「批判的に考える」必要がある。

ヘーゲル『小論理学』によれば、「批判」とは対立する別概念を用いて対象を攻撃することではない。普遍的だと思ってきたもの、平たくいえば自分たちの「常識」を、より大きな状況の中においては、特殊なものに過ぎないと明らかにすること。これが「批判」なのだ。個別の神学議論も大切ではある。しかし、重要なのは問題の全体に関するリテラシーである。

問題の全体を眺望するためには、体系が必要となる。「批判」は必ず体系を指し示す。「批判」とは、一つの体系的な知として、世界を把握しようとする運動なのだ。そして異なる把握の仕方、異なる体系が議論を重ねることにより、解釈の地平は広がっていく。

異なる言語によって神の偉大な業を語る。聖霊の働きとは、まさしくこれではなかったのか。

コロナ禍の日本という状況/文脈において、私たちはどのような体系/組織神学を築き上げることができるのか。あるいは日本の神学はどのような見解を示してきたのか。聖霊降臨日の季節、この1年半の日本の神学を批判的に学ぶ機会としたい。

【参考】

神戸教区covid-19対策室
https://nskk-kobe.org/CDST/

「新型コロナウイルス対策」第10信 教会活動の自粛基準の改定

ウイルス感染症拡大における教会活動の自粛基準
https://www.nskk-kobe.org/wp-content/uploads/2020/11/e14a1865eacc9d2ba7917558118d8c85.pdf

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

 






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