2月27日 ルカ24章25節

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ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。
ルカ24章25節(参考箇所同書24章13-27節)

エルサレムから西へ十二キロほど離れたエマオの村へ急ぐ二人の弟子に復活の主は道ずれとなられました。道中、二人の弟子は、まさか主御自身とは知るよしもなく、イスラエルの解放者と信じていた方が十字架上で死なれたこと、婦人たちがそのお方を葬った墓へ行ったところ、亡きがらがなかったことなど、エルサレムで起った出来事を話したのでした。
エマオへの途上で、復活の主は歩を同じくしながら、出来事の意味は旧約聖書に明らかにされているではないかと説明されたのが、ここに引用された聖句です。弟子たちは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき心が燃えたではないか」(三十二節)と言います。自分たちがあのお方について見聞きしたことが説明され、明らかにされていく、それが、他ならぬそのお方自身によって意味が明らかにされていることを弟子たちは知ったのです。だからこそ「心は燃えた」のであります。
 わたしたちも信仰の途次にあるとき、聖書を通して見聞きし、その意味が明らかにされ心燃える思いを持つ経験をします。そのとき主がその信仰の途次を共にしておいでになることを覚えたいものです。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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