10月25日 エフェソの信徒への手紙1章23節

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙1章23節(参照箇所同書1:15〜23)

 

「教会とはだれか」、この問いには神の民という答えが返ってくるでしょう。「教会とはなにか」、この問いにはキリストの体であるとの答えが返ってくるはずです。教会とは本来は「召し集められた者の群れ」の意味をもっていますが、その本質を言い表わすときには、神の民とキリストの体の両者で定義されるのが普通です。

パウロは異教社会に住む、エフェソの人々に向かって、キリストが如何に偉大な存在であるかを説き(20節以下)、あなたたちは全世界を支配するキリストの体である教会に連なっていると言うのです。

今、彼はエフェソの人々に向かって、教会がキリストの体である以上、どこを取ってもそこにはキリストがおいでになると言うのです。教会には、キリストがおいでにならないところはなく、キリストが働いてくださらない人もいません。

このような視点は、一般社会とはちがったところから人間を見るまなざしを教会は持っているということです。そして、社会の見方でなく、教会が持つ人間へのまなざしで見てもらいたいと願っている人たちが大勢います。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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