7月25日 イザヤ書1章18節

 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。
イザヤ書1章18節(参考箇所同書1章2〜20節)

「罪が緋のようであっても」とは、罪の贖(あがな)いのため屠(ほふ)られる動物犠牲の血の色を表わし、同時に死を持って贖われるとの意味をもつものです。罪は死に至るほどの重大かつ深刻なことであるとの認識をあらたにさせるものです。

それほど重大な罪であるにもかかわらず、「雪のように白くなることができる」と神は約束されます。白とは義を表わし、罪赦(ゆる)されて義人となることを意味します。それは罪に死んで義の命への甦(よみがえ)ることでもあります。

その意味で、洗礼は葬式であり、また誕生です。罪人が死んで義に生きることだからです。この死から命へという転換を神は約束されるのです。わたしたちにはその約束を信じる信仰が求められています。

パウロは言います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマの信徒への手紙6章4節)。わたしたちはこの転換によって羊の毛のように白くなることができます。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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