4月4日 ヨハネ11章25〜26節

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。
ヨハネ11章25〜26節(参考箇所同書11章1〜44節)

イエスが愛された家族、マルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなり、イエスがその家においでになったときのことです。「あなたの兄弟は復活する」とイエスが言われたのに対して、マルタは当時の人々の言うままに、あまり考えもしないで「終わりの日に復活することは、存じています」と答えたのでした。その答えに対して、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのです。

これは強烈な言葉です。死んだ者も生きている者も皆同じ命を生きているということです。その命とはキリストの命です。これは霊魂不滅とか、不死の賜物といったことではありません。キリストの命を生きるとはキリストと取り換えっこした命を生きているということにほかなりません。しかも生きていて、今その命を生きており、死んでもその命を生きる、それが信仰者の復活の意味であることを強い響きのうちに聞くのです。

キリスト者の墓碑銘(ぼひめい)に刻まれることの多い、この言葉を見るとき、ひとしおこの思いを深くします。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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