彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。(イザヤ書53章3節)
イエスの父 ヨセフはどこへ
旧約聖書のこの箇所は、イエス・キリストのことを預言していると考えられています。神から遣わされた存在なのに、人々に見捨てられて、侮辱を受け、苦しみながら死んでいく。まさにイエスの生涯と重なる姿が描かれています。
ただ私が以前から引っかかっていたのは、「病を知っている」という部分です。イエス自身は別に病気だったわけではない。確かに病気に苦しむ人たちに寄り添って、その痛みを分かち合ったかもしれないけれど。でも、ふと思ったのです。そう言えば、イエスの父ヨセフはその後どうしたのだろうかと。
マリアが結婚前にイエスを身ごもったのは、聖書には「聖霊(神の力)によって」とありますが、周囲からは〝姦淫の罪〟を犯したと見なされる事態でした。婚約者ヨセフはとまどい悩みながらも、最終的にはマリアとその子を受け入れ、主に示されたとおりにイエスと名付けます。ユダヤで父が子どもに名付けるとは、その子を確かに自分の子として認めることを意味します。
当時のユダヤ社会で、〝姦淫の罪〟を犯したとされる女性を受け入れることは決して寛容とはとられず、そのような夫や婚約者もまた〝神に背く罪人〟と見なされました。婚約者に裏切られた男に向けられる同性の友人たちの蔑みの目は、ユダヤ社会に生きる男性にとって耐えがたい屈辱であっただろうし、神への信仰を疑われることも、信仰深い人間にとって深く傷つかずにはいられなかったでしょう。
そして、その身に子を宿した女性と違って、男性は逃げようと思えば逃げられるわけです。現代の日本でもシングルマザーの貧困は深刻で、外国人労働者の女性が産んだ子を遺棄したという事件もありました。相手の男性はどこにいるのでしょうか? 女性だけが望まぬ妊娠とその結果を背負わされる、今も変わらぬ悲劇がマリアにも起こり得たことを考えると、実にイエスがこの世に無事生まれてきた奇跡は、神の御心であったとしても、ヨセフの選択なしにはあり得なかったことを思わされます。
罪人として扱われ 屈辱を共に受ける
彼がマリアと共に生きることで被る不利益の大きさを考える時、彼が単なる優柔不断な優しいだけの男であると見なすことはできません。むしろ、自分の利害や名誉よりも、相手の置かれた絶望的な状況を見過ごすことができず、自分の庇護を必要としている、自分しか守ることのできない相手へ寄り添う生き方を選んだヨセフに、無私の愛の強さを感じずにはいられません。ヨセフにとって、マリアと共に生きるということは、罪人扱いと屈辱を共に負うことでした。しかしヨセフは、それこそが神の御心だと受け止め、引き受けたのです。
そしてイエスもまた、ヨセフのように、罪人と見なされている人々、彼らと付き合う人間もまた汚れたとされるような人々と共に生きる人生を歩みました。それこそが神の御心だと信じて。
イエスは病を知っていた
マタイ福音書によれば、ヨセフはヘロデ王に命を狙われた幼子イエスを守るために家族でエジプトに逃げてしばらく滞在したこと、ルカ福音書によれば12歳になったイエスを連れてエルサレムに行ったことが記されています。しかし、その後ヨセフの消息は、聖書からプッツリと消えます。
姦淫の罪を犯した罪人と見なされるマリアと、マリアが身ごもった血のつながっていないイエスを受け入れ、命がけで守り育てたヨセフが、イエスの12歳以降に登場しないのは、おそらくその後亡くなったからでしょう。その原因の可能性として最も高いのは病気です。昔は治療法も少なく、特に貧しい人々は、今なら治るような病気で苦しみ亡くなる人が多かったことが、福音書を読んでもわかります。
12歳を過ぎて間もなくイエスは、病気に苦しむ父を、その父を懸命に看病する母を間近で見てきた。そして父亡き後、女手一つでイエスと幼い弟妹たちを苦労して育てねばならなかった母を、長男であるイエスは必死に支えて生きてきたのではないでしょうか。当時、治らない病気に侵された人は罪人と見なされることが多く、また夫に先立たれた女性も社会の最底辺に置かれました。まさにイエスは「病を知っていた」、病人本人の苦しみだけでなく、その周りの家族の痛みも知っていた。だから、病に苦しむ人々の痛みに親身になって寄り添えたのかと合点がいった気がしたのです。
痛みを知っているからこそ
そしてイエスが急に身近に感じられました。なぜなら私自身がまったく同じ経験をしているからです。
中学時代に父が不治の病にかかり闘病の末、亡くなりました。3人姉弟の一番年上だった私は、自分の悲しみ以上に途方に暮れている母を支えざるを得ない状況に置かれました。それはつらく苦しい経験でしたが、その経験が今の自分につながっていることもまた事実です。
イエスは「神の子」「救い主」と言われますが、同時に人間としてこの世を歩まれた以上、その歩みには出会った人々、とりわけ深くかかわった家族の影響がないはずはありません。私たちもまた、神様の働きかけをリアルに感じるのは、具体的な人との関わりを通してではないでしょうか。聖書では影の薄い父ヨセフですが、イエスの人生に確かな足跡を残している。イエスは神様の愛を、きっとヨセフを通しても実感したのだろうと思わされます。
神様の愛を伝えるためにこの世に来られたイエスが、軽蔑されたり、見捨てられたりする痛みや、病の苦しみを、身をもって知っていてくださるというのは、私たちにとって大きな慰めになるのではないでしょうか。そしてイエスがそうであったように、私たちもまた、自らの痛みを通して、他者の痛みを知るようにと呼びかけられているような気がします。
出典:公益財団法人日本YWCA機関紙『YWCA』2025年12月号より転載

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