Q.自分には殉教などとてもできないと思っているのですが、やはり信仰は命がけで守るべきものでしょうか?(40代・女性)
信仰は「自分の場」で生きるものです。一人ひとりの生活の場、それが信仰の場になります。自分が生きている場で、「天の父である神のみ心が実現しますように」と祈りながら生きるのです。
人類の歴史の中に多くの殉教者を見ることができます。過去だけではなく、現在も。
殉教者は自分の死をもって、その信仰を証しします。殉教者自身も「自信」をもって殉教ができるとは思っていなかったでしょう。「その時が来れば聖霊が語る」と聖書が教えていますが、殉教は人の業であると同時に神の業でしょう。神がなさる業です。人はその神に自分を明け渡すのです。
イエスの母マリアは天使のお告げに「神のお望みならば」と応えました。イエスご自身も「私の望みではなく、父よ、あなたの望みどおりになりますように」と祈りながら生きられました。そのイエスは「まず神の望みが実現する」ことを祈るようにと「主の祈り」を教えてくださいました。マザー・テレサの母親は常日ごろからテレサに「あなたの望むことではなく、神さまの望むことをするのよ」と教えていたそうです。
信仰者は自分の望みではなく、父である神の望みが実現するようにと祈りながら、自分がその神の手足となれるように自分を明け渡すのです。 殉教などとてもできないと思うのは当然だと思います。しかし、日々、自分の生活の場で神の望みの実現を最優先して生きるとき、「その時」が来たとき、神が人を殉教へと導いてくださるのです。
多様な価値観、ときとして間違った社会の価値観の中で生きるのは難しいことです。命を明け渡すようなことがないとしても、日々「私をあなたの平和の道具としてお使いください」(アシジの聖フランシスコ)との思いで生きることは、小さな殉教を積み重ねていくことになっているのです。
*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。
やまもと・まこと 1953年福岡県生まれ。80年、カトリック司祭となる。81~85年、ローマ在住(教会法研究)。福岡教区事務局長、福岡カトリック神学院院長などを経て、カトリック西新教会主任司祭、