主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ローマ人への手紙の11章です。よろしくどうぞ。
ローマ人への手紙 11章16節
麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
根っこがしっかりしていたら、立派な木が生えて、立派な枝も出てきます。そして立派な実を結ぶこともできるでしょうが、根っこが細ければ立派な木は生えませんし、立派な枝も出ませんし、立派な実も結べません。人はつい、枝や実を誇ってしまいます。しかし本当に誇るべきは根っこです。根っこがしっかりしていれば、枝なんて接木でだってなんとかなるものです。
クリスチャンというのは接木です。誰も生まれながらのクリスチャンなんていないからです。クリスチャンの両親のもとで生まれたいわゆるクリスチャン2世だって、生まれながらにクリスチャンであるわけではありません。人生のある段階で、自分の意思で信仰告白をして洗礼を受けてクリスチャンになるわけです。と、いうことは、クリスチャンというのは他の木に生えた枝を折って、聖書の根っこから生える木に接木したようなものであるわけです。
それなのに。クリスチャンの中にはまるで自分がその木の根っこであるかのように威張る人が残念ながらいたりします。まるで生まれたときからその木の一部であったかのように誇る人が残念ながらいたりします。
僕たちは誰もが、根っこから栄養をもらう接木の枝なんです。何も誇ることはできません。クリスチャンとしての誇り?そんなものは偽物です。クリスチャンとしての自分を誇る暇があるなら、その栄誉を神様に返すべきです。枝から生える葉っぱは光合成ができるでしょうけれど、それだって根っこがあるからこそできることです。光合成した栄養は根っこに還元すべきです。そんな誇りは「僕は光合成をしているから独立しているんだ!根っこから独立しているんだ!」とか「僕は親から生活費と学費の仕送りを受けているけれど、一人暮らしをしているから独立しているんだ」と言っているのと同じです。根っこあっての枝、親の仕送りあっての生活。それは決して否定されれるべきものではありませんが、それを自分のものとして誇るのは違います。
そして僕たちは神様から常に愛や恵みの仕送りを受けています。それはもはや全額の仕送りと言って良いでしょう。一部援助を受けているなんて次元ではありません。生活費も学費も全部仕送りしてもらっているようなものです。親から仕送りを受ける子が親に感謝し、時々は実家に帰って親に顔を見せるように、クリスチャンも神様からの日々の仕送りに感謝して、日曜日には神様に顔をみせに教会に行くわけです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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