主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、雅歌の5章です。よろしくどうぞ。
詩篇 13篇1節
主よ いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
物価高が続いています。でも収入はなかなか増えません。節約の日々が続いている方も多いかと思います。そして「いつまでこんな生活が続くんだ!」と嘆いている方も多いかと思います。
「いつまでですか」というこの問いは、人類が歴史の中で抱き続け、叫び続けてきた問いかと思います。この問いほど多く叫ばれてきた問いも、他になかなかないかもしれません。人間って、終わりの見えている苦しみならそれなりに耐えられるものです。でも終わりが見えないと耐えきれなくなります。
僕は高校時代、剣道をやっていましたけれど、夏の合宿はいわゆる「地獄の合宿」でした。倒れるまで稽古して、倒れたら引き起こされてまた稽古して、足の皮はズル剥けで道場の床が血で染まるほどでした。それでも耐えられたのは「あと4日・・・あと3日・・・」と、終わりが見えていたからでした。あれが「無期限の合宿」だったら僕はまちがいなく逃げ出していたことでしょう。
先日、新刊の『聖書のなかの残念な人たち(笠間書院)』が発売になりましたが、これを書くのもなかなか大変な、骨の折れる仕事でした。全部で290ページ近く書きました。この仕事を無事に終えられたのは、最初に「これとこれとこれを書くぞ」と、章立てを決め、項目を決め、進行表を作ってあったからです。つまり終わりに向かって少しずつ進んでいる自分を認識できるようにしたからです。そうしなければ「終わりの見えない仕事」に圧倒されて僕は途中で筆を投げていたかもしれません。
でも世の中、こんな風に終わりの見える仕事や苦難ばかりではありません。むしろ終わりの見えない仕事や苦難の方が多いかもしれません。そんなものにぶつかったとき、人は神様に問うんです。たぶん神様を信じていない人さえも問うんです。いつまでですか、と。
でもだからこそ、終わりの見え得る仕事や苦難なら、それを見えるようにしておいた方がいいです。それでずいぶんと気が楽になりますし、やる気にだってなってきます。もし自分が、誰かに仕事をお願いしたり指示をしたりする立場なら、終わりの見える形でお願いしたり指示したりした方がいいです。それだけで相手は気が楽になりますし、やる気にだってなってくれます。マラソン選手だって42.195kmという「終わり」が見えているから走れるわけで、「どこまでも、いつまでも走れ」なんて言われたら走れませんし、どんなペースで走っていいかもわからないでしょう。
つまりどんな場合でもできる限り「終わりの見えない状況」は避けるべきなんです。その状況が人間の苦しみを指数関数的に増幅させてしまうからです。
それでも避けられないとき、僕たちはこのダビデと同じように「いつまでですか」と神様に問うしかありません。でも神様にそう問うたとき、きっと少しだけ気が楽になっていることに、もし自分の心を注意深く観察しているのなら、気づくはずです。僕たちには見えなくとも、神様は「終わり」が見えています。それが見えている、それを知っている存在がいるというだけで、僕たちは少しだけ安心することができるんです。だってそれはそれが「いつか終わる」ことの証明ですから。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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