主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、雅歌の5章です。よろしくどうぞ。
雅歌 5章3節
私は衣を脱いでしまいました。
どうして、また着られるでしょう。
足も洗ってしまいました。
どうして、また汚せるでしょう。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
雅歌は聖書のいわば「ラブソング集」ですから、様々な恋愛の形が示されています。2500年前も今も、恋する男女の気持ちはあまり変わらないものです。ここでは、遅い時間に愛する男性からデートに誘われた女性の気持ちが記されています。つまり、「もう着替えて寝支度をしてしまったから、今からはでかけられません」という意味です。
現代でもありますよね。夜遅めの時間に「これからでかけない?」と誘われて、「いや、もう部屋着に着替えちゃったし、化粧も落としちゃったし、ちょっと無理」ってとき。恋愛に限らずともありますよね。もう歯を磨いちゃったのに家族がお土産を買って帰ってきて「一緒に食べよう」なんて言ってくれちゃったときとか。
今も昔も変わらないんだな、と思います。ちょっと微笑ましくも思います。
しかし、雅歌というのはただ単にラブソング集なだけではありません。雅歌は恋愛を比喩として人間と神様の関係を示している書でもあります。神様は時として、人間の都合に関係なく行動を求めることがあります。もう着替えちゃったり化粧を落としちゃったりした後で「さぁでかけよう」と言うこともありますし、歯を磨いちゃったあとに「さぁこれを食べなさい」と言うこともあるんです。たとえば目の前に悩み苦しんで助けを必要としている人がいるとき、「今は仕事が忙しいから」とか「疲れているから」とかの理由でその人を放っておいていいでしょうか。自分の都合は傍に置いて、その人を助けるべきではないでしょうか。もしかしたら神様はもっと大きな使命に僕たちを駆り出すことがあるかもしれません。そのときに「今は仕事が忙しいので来月まで待ってください」と言っている場合でしょうか。イエスの弟子たちの中にも「ついてきなさい」と言われて「今は親の介護がありますから、親を看取ったらついていきます」なんて答える人もいました。
理不尽にも思えるかもしれません。神様ならもっと僕たちの事情も察してよ!なんて思いたくもなります。でもよく考えてみれば人間の「事情」というのは、人間が自分自身を勝手に縛っている思い込みであったりもするものです。化粧を落としたら外には出られない、頭がボサボサだと外には出られない。本当にそうでしょうか。自分が本当に大切に思うものや欲しいと願うもののためには、そんなの関係なく外に出るのではないでしょうか。本当に好きな人に誘われたなら、もう一度着替える手間をかけてでも出かけるでしょう。本当に食べたいもののためならば、もう一度歯を磨く手間も惜しまないのではないでしょうか。
その、ちょっと面倒くさい「ひと手間」を神様は見ています。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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