主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヘブル人への手紙の3章です。よろしくどうぞ。
ヘブル人への手紙 3章4節
家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
あたりまえのことですが、家というのは誰かが建てるものです。長い時間を経て、様々な偶然が積み重なってそこに家が現れるということはありません。木がたまたま雷やら風やらの力によって角材になり、それがまたたまたま風やら何やらの力によって家になったのだ、なんて言っても誰も信じないことでしょう。家は設計士さんによって設計され、大工さんや左官屋さんや、たくさんの職人さんの手によって建てられるものです。
しかし家がたまたまそこに建ったというのは信じられないのに、それよりもはるかに大きくて複雑なこの世界については、長い時間を経て、様々な偶然が積み重なってここに現れている、ということを信じている人が世にはたくさんいます。家よりは小さくても、家よりもはるかに複雑な人間そのものについては、長い時間を経て、様々な偶然が積み重なってここにいるのだ、と信じている人がたくさんいます。いわゆる進化論というやつです。
人間は、自分たちの手で作れるものについては、「それが偶然の産物だ」と言われても信じないのですが、自分たちの手で作れないものについては、「それが偶然の産物だ」と言われるとそれで納得してしまいます。「偶然」ってそれほどまでに万能なものでしょうか。まるで偶然を神とするかのようです。
進化論を学んでみれば、そこにはあまりに多くの不明点や矛盾点があることがわかります。そして進化の根源となる生命の起源についてはほぼ何も分かっていないと言ってもいいくらいです。
ただ一つ間違いのないことは、「ここに家がある」「ここに私がいる」ということです。
それが偶然の重なりでできたものであっても、誰かが設計して誰かの手で作られたものであっても、その事実は変わりません。そしてその家の「あたたかさ」も変わりません。どうせそうであるのなら、僕は「この家は偶然によってできたのだ」と思うよりも、「この家は誰かがあたたかい思いをもって建ててくれたのだ」と思う方が幸せです。偶然に対しては感謝の心は生まれませんが、誰かが建てたと思えばそこに感謝が生まれます。感謝というのはされる側だけが幸せなものではなく、する側だって同じくらいに幸せなものです。
そんなわけで僕は、「自分が今ここにいる」という事実が変わらないのなら、自分を「お前なんか偶然の産物であって意味なんてないんだ」なんてひどいことを言う進化論よりも、「君はちゃんと設計されて、意味をもってつくられたんだよ」と言ってくれる聖書を頼りに生きたいと思うんです。どうせわからないことばかりなら、幸せな方を選んだ方が幸せじゃないですか。どうせわからないことばかりなのに、わざわざ不幸な説を選んでしまったら人生がもったいない。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。
【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。