主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の17章です。よろしくどうぞ。
エレミヤ書 17章5〜6節
「人間に信頼する者はのろわれよ。
・・・
そのような者は荒れ地の灌木。
幸せが訪れても出会うことはなく、・・・(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ここでいう「人間に信頼する者」というのは、「神様を信頼しない者」あるいは「神様の力よりも人間の力に頼っている者」という意味です。ですから「人を信頼してはいけない」という意味ではありません。人を信頼すること、信頼できることはもちろん良いことです。ただしそれは「神様への信頼を第一の土台とした上で」という大前提の上でのことです。
「人間に信頼する者」は、人間の作り出せる価値だけを追い求めます。地位、名誉、富。そういったものはすべて人間が作り上げたものです。「人間に信頼する者」はこれらばかりを追い求めて、本当に価値のあるものに目を留めません。それはたとえば愛とか平安とかいのちだとかのことです。これらのものを人間は作り出すことができません。それは与えられるものであって、人間の力で得られるものではないんです。そしてそういう人は「幸せが訪れても出会うことがない」と記されています。
「幸せになりたい」と多くの人が望みます。これはもう、ほとんどすべての人が望んでいることでしょう。しかし残念ながらそう望みつつも「もっと幸せになりたい、将来幸せになりたい」と願うばかりで、目の前にすでに与えられている幸せに気づかない人も少なくありません。人間が作り出せる価値、地位や名誉や富では、幸せは得ることができないんです。おそらくそれでも「幸せらしきもの」「幸せっぽいもの」は得ることができるでしょう。しかし、神様が人間に用意した、本当の幸せは得ることができません。それは目の前にあるのに、それに気づくことができないんです。
僕たちは実はすでに多くの幸せに囲まれて生きています。寝るところがあり、食べるものがあり、見上げれば青い空があり、夜に耳をすませば秋の虫の美しい声が聞こえます。それを「あたりまえ」と思った瞬間に、その幸せは僕たちの前から消えます。そこにそのままあるのに、僕たちの目には見えなくなってしまうんです。「あたりまえ」というのは、幸せを消し去る魔法の呪文です。悪魔の呪文です。目の前の幸せを消し去って「もっと!もっと!幸せはどこだ!」と、「幸せっぽいもの」を貪るように人間を仕向ける恐ろしい呪文です。
思い返してみてください。「あたりまえ」という言葉を口にするとき、心の中で思うとき、あなたは笑顔ですか?笑顔ではないはずです。退屈な顔をして、あるいは少し不満な顔をして「そんなのあたりまえ」と言っているはずです。笑顔なはずがないんです。その「あたりまえ」という呪文でせっかくの幸せを自分で打ち消しているんですから。
この恐ろしい「あたりまえ」の呪文を消し去るのが、感謝です。目の前にあるものに感謝してそれを享受すれば日々の生活から無尽蔵の幸せを得ることができます。そして感謝は突き詰めていけば必ず神様への感謝まで行き着きます。だからこそ、神様よりも人間を信頼する人は最終的に「あたりまえ」の呪文の魔力に負けて、自ら与えられた幸せを消し去ってしまうんです。
神様という方は「あたりまえ」の対極にいらっしゃる方です。身の回りの「あたりまえ」を一つ一つ感謝に変えていくことが、神様の望む姿に近づくための大切な道なのかと思います。そして「あたりまえ」を「ありがとう」に変える度に、あなたは笑顔になるはずです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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