主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、士師記の10章です。よろしくどうぞ。
士師記 10章14節
行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦しみの時には、彼らが救ってくれるだろう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
旧約聖書に記されているイスラエルの歴史は、民が神様に忠実に仕えたり、神様から離れて異教の神々を拝んだりの繰り返しです。何度も神様に逆らって異教の神に仕えてはひどい目にあってまた「神様ごめんなさい」と謝る。これを何度も何度も、これでもかというほど繰り返しているのがイスラエルの歴史です。
今回もまたイスラエルの民は異教の神々に仕え、それで異民族によって苦しめられるようになってしまいました。そこで民は例によって例のごとく、神様に謝りました。「ごめんなさい神様、もう異教の神を拝むことはやめますから私たちを救ってください」しかし神様は「勝手にすればいいじゃない。君たちが苦しい時は君たちが選んだ異教の神々が君達を救ってくれるでしょうよ」と突き放しました。これはもう、神様かなり怒ってます。「謝ってもゆるさないぞ」モードに入っています。
こんなシーンを読むと、「イスラエルの人たちは懲りないなぁ。すなおに神様に従えばいいのに」なんて、僕たちは思ってしまいがちです。でも僕たちもまた彼らと同じです。「異教の神々」とは必ずしも「神々」とは限りません。偶像礼拝とは、神様以外のものを神様として拝むことを指しますから、その対象は必ずしも他の「神」とは限らないんです。たとえば今の世なら「神様なんかより、自分自身を信じる」なんていう人は多いですが、これも立派な偶像礼拝であり、イスラエルの民が犯したのと同じ罪を犯していることになります。
「自分を信じる」と言えばなんとなくかっこいいですし、響きもいいですけれど、では本当に困って神様に祈った時に、「勝手にしなよ。苦しい時は自分自身でなんとかできるんだろ?そうすればいいじゃないか」と言われたらどうでしょう。絶望的な気持ちになるのではないでしょうか。自分自身にせよ、異教の神々にせよ、お金にせよ、名誉にせよ、本当の神様以外のものをたよりに生きるのはいざという時にはかないものです。「苦しい時の神だのみ」なんて言葉がありますけれど、いざ困って神様に祈っても「勝手にしなよ。お金と名誉でなんとかなるって言ってたじゃない?」なんて言われてしまうわけです。
人生で本当にピンチな時に、最終的に頼れるものはなんでしょう。ピンチじゃない時にこそ、しっかりとそれを考えて、本当に頼れるものに普段から心をかけておく。これが大切なことかと思います。そうでなければ「苦しい時の神だのみ」はただ虚しいだけです。苦しい時に神様に頼るためには普段からの心がけが大事なんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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