主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ヘブル人への手紙の12章です。よろしくどうぞ。
ヘブル人への手紙 12章11節
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平和の実を結ばせます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
人生、生きていれば辛いことや苦しいこともたくさんあります。パウロはそれを神様からの訓練だと言っています。親が子を訓練するように、神様は人を愛しているからこそ、訓練するのだと言っています。子を訓練しない親がいるなら、その親は子を愛していないのだとまで言っています。つまり、神が人を訓練する=人生に苦難があることは、人を神様が愛している証拠だということになります。
中学・高校と6年間、剣道をやっていたのですが、キツい稽古もたくさんありました。立てなくなるまでしごかれて、そんなときは心からコーチのことを憎たらしく思ったものです。学校の駐車場にコーチの赤いバイクが止まっていると、それだけで稽古前から吐き気がしたものです。「コーチが来なければ稽古が楽に終わって良いんだけどなぁ」なんて思っていました。でも、当たり前ですがそれでは強くはなれません。人はどうしてもきつい稽古からは逃げたいものです。コーチなしで、自分の精神力だけで自分にきつい稽古を課し続けるのはとても難しいものです。自分の意思だけで立てなくなるまで稽古をするなんて常人にはできません。
それにコーチはわざわざ自分の時間を割いて(うちの学校は弱小だったのでコーチはほぼ無給のボランティアだったんです)バイクを飛ばして僕たちの学校の稽古場まで来てくれていたわけです。これが愛じゃなくてなんでしょう。それに、たまにコーチに褒められてご褒美にハンバーガーを奢ってもらったりした時は、嬉しかったものです。これが愛じゃなくてなんでしょう。実は僕は生まれつき足が悪いので、中学の顧問の先生はそれに「配慮」してか、それほどきつい稽古を課してはくれなかったのですが、高校のコーチは「お前は普通にしごいて大丈夫だな?」と確認されて「はい!」と答えると、人並み以上に僕をボコボコにしごいてくれたのでした。それはとてもありがたかったですし、嬉しかったです。考えてみれば足の悪い僕を人並みにしごくなんて、ある意味でリスキーなことだったでしょうに。これが愛じゃなくてなんでしょう。
神様が僕たちを訓練するとき、つまり僕たちが人生の難局にぶちあたるとき、僕たちは時として神様を憎たらしくさえ思います。「どうしてここまでキツい稽古をしなきゃいけないんですか!?」と文句を言いたくもなります。でもそれは愛なんです。人は強制的にキツいところに追い込まれなければ強くはなれないと、神様は知っているんです。
優れたスポーツ選手には必ず優れたコーチがいます。どんなに優れたスポーツ選手であっても、自分の精神力と意思だけで自分をとことん追い込むことは難しいんです。正しい方向性をもって稽古することも難しいんです。僕たちクリスチャンには聖霊なる神という、これ以上ない名コーチがついています。だって聖霊は神様そのものですからね、これ以上のコーチがいるわけがありません。聖霊は優しいだけのコーチではありません、時として鬼コーチです。でも、時に鬼になってくれるコーチこそ、信頼できるコーチなんです。
コーチに言われた言葉で今でも覚えているのは「もう無理です!」と弱音を吐いた時に「無理かどうかはお前が自分で決めることじゃない!」と言われたことです。人生の試練を前にして「もう無理」と思うこともあります。これからもあるでしょう。でもそのとき、きっと神様も「無理かどうかはお前が自分で決めることじゃない!」と励ましてくれるのだと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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