「神のことば」はステーキ「人のことば」はカレーライス【聖書からよもやま話469】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、テサロニケ人への手紙第一の2章です。よろしくどうぞ。

テサロニケ人への手紙第一 2章13節

あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

福音を「人のことば」として聴くか、「神のことば」として聴くか。僕はいわゆる福音派のクリスチャンですから、聖書を「神のことば」と解釈しています。しかし、すべてのクリスチャンがそうではありません。クリスチャンでも福音を「人のことば」として聴く方もいますし、ましてノンクリスチャンの方ならほとんどの方が福音を、あるいは聖書を「人のことば」として理解していることと思います。

パウロはこのテサロニケ人への手紙において、テサロニケの人たちが彼の語ることばを「神のことば」として受け入れてくれたことに感謝しています。2000年前から、福音をあくまで「人のことば」と受け止める人が多かったのだということが、ここから分かります。「昔は科学が発展していなかったから、昔の人は聖書を素直に信じることができたんだ」という考えは、現代人の昔の人に対する偏見です。昔から人間は神様の言うことをそう簡単には信じていなかったんです。むしろ信じない人の方が多かったんです。

さて。では福音を「人のことば」として聴くのと「神のことば」として聴くのとでは、どう違うのでしょう。「人のことば」は、他の人の評価を必要とします。そのことばが他の人に高く評価されるか低く評価されるかで、その価値が変わってきますし、その評価は時代によっても変わります。ですからクリスチャンの中にも「聖書を現代の価値観に則してアップデートすべき、書き換えるべき」と主張する方もいます。一方で「神のことば」はその価値に、人の評価を必要とはしません。人が高く評価しようと低く評価しようと、そのことばはそのままの価値を保ち続けます。故に時代によってもその地位が揺らぐことはありません。この立場に立てば「聖書を現代の価値観に則してアップデートすべき」という主張は起こり得ません。アップデートされるべきは聖書ではなく、それを読む人間の側だ、ということになります。

先にも書きましたように、僕は福音派のクリスチャンですから、後者の立場をとります。福音が人間や時代に合わせて変わることはあってはならず、反対に人間の方が福音に合わせて変わるべきであると考えています。そしてパウロもそのように福音を信じた時に、「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています」と言っています。

確かに聖書を教養として読むことにも大いに意味はあるでしょうし、そこから人生を好転させるヒントを得ることもできるでしょう。実際、僕もそのような読み方をまずはノンクリスチャンの方に推奨していますし、それを推奨する活動や執筆もしています。しかし最終的に、聖書のことばが本当に人生において生きるため、それによって人生が変えられるためには、聖書に記されている、あるいは福音として語られることばを「神のことば」として信じる必要があります。そのように信じて受け入れたときに初めて聖書は、福音は、僕たちの人生を大きく変えてくれます。人生の指針になってくれます。そうでなければそれはあくまで「教養の本」とか「先人の叡智」でしかありません。しかしそれでも僕はそれを否定しません。むしろそれを推奨しますし喜びもします。

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UnsplashNerfee Mirandillaが撮影した写真

聖書を教養として読むことは、ステーキ屋でカレーライスを食べることに似ています。ステーキ屋の真価を知りたいのであればもちろんステーキを食べなければいけませんが、しかしお客さんが全員必ずステーキを食べなければいけないわけでもありません。ランチにカレーライスを注文したっていいんですし、そのカレーライスだってそれなりにおいしいはずです。中には「ここのカレーが好きなんだ。おいしいんだ」と何度もカレーを食べに通う人だって出てくるでしょう。そして、カレーを食べてみて「今度はこの店のステーキを食べてみたい」と思う人だって出てくるでしょう。だから僕は聖書を「教養として」「人のことば」として読むことを否定しませんし、むしろ「気軽にカレーだけでも食べていきませんか」と薦めさえするんです。「カレーばっかり食べてステーキを食べないなら帰ってくれ。二度と来ないでくれ」なんて決して言いません。カレーを好きで食べている人には「おいしいでしょ、うちのカレー。気に入ったらまたきてね」と言います。

そして僕はステーキ屋のカレーライスとか、寿司屋のラーメンとか、そういうメニューが好きなんです。もちろんその店の真価を味わうためにはステーキとか寿司とかを食べる必要がありますし、シェフや板前さんもそれを望んでいるでしょうが、カレーやラーメンだってすこぶるおいしいぞ、と思っています。いつもランチにカレーライスを食べに通っていたお客さんがある日のディナータイムに「今日はここのステーキを食べにきました」とやってきたら、きっとシェフも嬉しいでしょうし、いつもより張り切って、もしかしたらいつもよりちょっとだけ大きな肉を焼いてくれるかもしれません。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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