「まわりの目」なんて気にするな【聖書からよもやま話438】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、 使徒の働きの2章です。よろしくどうぞ。

使徒の働き 2章13節

だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イエスさまの弟子、使徒たちに聖霊が降りてきて、彼らは口々に異国の言葉を話し始めました。まわりの人たちはこの様子をみて「何が起こったー!?」と驚きもしましたが、中には「酒飲んで酔っ払ってるだけだろよ」と言う人もいました。

他の人だとか、世の中の常識だとか、そういったものと異なることを言うとき、異なる行動を起こすとき、現代であっても「どうかしてるんじゃないのか」とか「酔っ払ってるんじゃないか」とか「洗脳されてるんじゃないのか」とか言われることがあります。たとえば僕は進化論を否定することを時々言いますから、そんなときには「マロさん大丈夫?酔っ払ってるの?」なんて言われたこともあります。

神様の起こすこと、神様の与えることばは、時としてまわりの人から見たら「どうかしている」「酔っ払っている」と見えることもあります。神様は人間の常識なんて無視してことを起こすので、当然それは人間の常識の範疇に収まらないからです。

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UnsplashRobert Gourleyが撮影した写真

もちろん何事もそれを盲信して「周りが僕を変な目で見るのは、それは僕が正しい証拠だ!」なんていうのは危険です。しかし常に自分を見つめつつ、検証しつつ、それでもそれをなさねばならないとき、そんな時は「まわりに変な目で見られる」なんてことを恐れてはいけません。「まわりの目」によって自分の基準を変えてしまってはいけません。それでは一種の洗脳と同じです。

「周りに変な目で見られる」ことと「自分がまちがっている」ことの間に、何の相関関係もありません。つい人は、特に日本人は「変な目で見られるからやめておこう」とか思ってしまいがちですが、それは良いことではありません。使徒たちは「頭がおかしくなったのか」「朝から酒飲んで酔っ払っているのか」なんて言われながらも、毅然と初代教会を立ち上げたんです。

変な目で見られたって、その「変な目」を送ってきた人たちは、きっと明日にはその目のことなんて覚えていやしません。旅の恥はかき捨て、そして人生は旅です。人からの「変な目」を自分の行動基準にしてはいけません。もったいない。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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