主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 テモテへの手紙第一の1章です。よろしくどうぞ。
テモテへの手紙第一 1章15節
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた:ということばは真実であり。そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「キリストは罪人を救うために来た」とか「罪人にこそキリストが必要です」とか言っても、クリスチャンではない方にはピンと来ないかもしれません。しかし「医者は病人を治すためにいる」とか「病人にこそ医者が必要です」とか言えばピンとくるところもあるのではないでしょうか。
しかし、どんな名医であっても病院に来るか、あるいは家まで呼んでくれる人でなくては治療できません。そして病院に行ったり、医者を呼んだりするためにはまず「自分が病気である」ということを認めなくてはいけません。「俺は健康だぜ」と自信を持っている人は病院に行くことも往診を求めることもありません。キリストが罪人を救うというのも、これと同じことです。まず自分が罪人であることを認め、教会に行くなり、祈るなりの行為がなければ、救うことができません。「俺には罪なんてないぜ」と自信満々の人を救うことはできないんです。
「こんな症状が出たら病院へ!」という情報はテレビでもインターネットでもあちこちにあります。そういう情報は病院から人々への「自分が病気であることにまず気づいて!早めに気づいて!そしたら治せるから!」というメッセージです。同じように、聖書、特に旧約聖書に記されている律法の数々、「罪」の数々は、「自分が罪人であることにまず気づいて!そしたら救えるから!」という神様からのメッセージです。まず教会に一度行ってみることは健康診断のようなものですし、それから毎週通うというのは定期検診のようなものです。クリスチャンというのは自分の「病気」を自覚して、毎週「病院」に通う人のようなものなんです。
病気は放置すると取り返しのつかないことになったりします。罪もまた放置すると取り返しのつかないことになります。自分が病気だと気づいた人は、その病気を放置したりはしません。病気を放置してしまうのは自分の病気に気づいていない人です。罪も同じで自分が罪人だと気づいた人はその罪を放置したりはしません。罪を放置してしまうのは自分の罪に気づいていない人です。
病気も罪も、気づいた時点で治療への最大の一歩をすでに踏み出したと言えるんです。どちらも気づいた時点から、回復に向かうんです。このテモテへの手紙の1章9節には「不法な者、不従順なもの、淫らな者、嘘をつく者・・・・」と、色々な罪が並べられていますが、これは「こんなことをしたらダメだよ!」というよりは「こんな症状が出ていませんか?出ているとしたら病院に来てくださいね」というメッセージに近いんだと思います。
僕は「こんな症状」がたくさん出まくっているので、迷わず治療を続けようかと思います。大丈夫、今どれほどの症状が出ていたとしても「名医」であるキリストは「いずれ必ず治るよ!」と保証してくれているんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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