主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 ヨハネの黙示録の11章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの黙示録 11章17節
「私たちはあなたに感謝します。
今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。
あなたは偉大な力を働かせて、
王となられました。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「神なんて今の時代にはもういない」なんて言葉を聞くことがあります。しかしそれは21世紀の現代特有の言葉ではなく、大昔から、紀元前にだって同じことを言う人はいたんです。だからこそ、世の終わりを記している黙示録にもこうして「今おられ、昔おられた全能者」と書いてあるんです。今も昔もそして未来も、「神のいない時代」なんてどこにもないのだ、神は存在し続けるのだという宣言です。
さて、ここには「私たちはあなたに感謝します」と書いてあります。誰に感謝しているのかといえば「偉大な力を働かせて王となった神様」にです。王に就任して感謝されることって、実は少ないのではないでしょうか。特に現代の民主主義社会では、選挙によって政治家や指導者が決まった時、「ありがとうございます」というのは、その就任する人であって、それを選んだ民ではありません。日本の総理大臣が人から「総理大臣になってくれてありがとうございます」なんて言われるのはあまり聞きません。もちろんそんなシチュエーションもゼロではないのでしょうけれども。
しかし神様は王になることを長い間、待ち望まれている方です。だからこそついに王になるときに感謝が捧げられるのでしょう。今も昔も、そして未来も、ずーっと王となることを待ち望まれている方、それが神様でありキリストでもあります。旧約聖書の時代から現代に至るまで、神様が王になることを待ち望まれていない時代は存在しないんです。もちろん、キリスト教やユダヤ教以外を信じている方、無信仰の方は「そんなもの望まない」と言うかもしれませんが、それを心から望む人がずーっと少なからず存在している、存在していたのは確かなことです。
僕たちはよく「良き指導者を待ち望む」のですけれど、そういったケースでは「まだみぬ救世主のような指導者」を待ち望むことが多いのではないでしょうか。特定の誰かをさして「この人を待ち望む」というケースはないとは言いませんが少ないかと思います。僕たちは「待ち望む」とき、「まだ見ぬもの」を待ち望むことが多いんです。しかし聖書は言います。「君たちが待ち望むべきものは「まだ見ぬもの」ではないぞ、君たちはすでにその人を見ているんだぞ」と。その人とはもちろん、イエス・キリストです。
クリスチャンでさえ、どこかイエス・キリストを「雲の上の人」とか「まだ見ぬ人」のようにとらえてしまっているところがあります。しかしそうではなく、イエス・キリストは肉体をもってこの世に生き、世はすでにこの人を見たんです。その証言集が新約聖書、特に福音書だと言えます。だからこそ、何千年もの時を超えて、この方が王になる日が待ち望まれ続けているんです。今も昔も、そして未来も。この方が王になるその日まで。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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