主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、申命記の34章です。よろしくどうぞ。
申命記 34章10節
モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
エンゼルスの大谷翔平選手はよく「ベーブ・ルースの再来」と言われます。ご本人はあまりそのことについて触れませんが、どう思っているでしょう。世の中には「○○の再来!」と褒められて嬉しく思う人もいれば、嬉しく思わない人もいます。先日大相撲で新大関になった豊昇龍関はかつての横綱朝青龍の甥で、「第二の朝青龍」を期待する声も高いですが、本人は「第二の朝青龍」とか「朝青龍の甥っ子」と呼ばれるのはあまり好まないようです。
さて、今日の聖書はモーセが亡くなるシーンですけれど、そこには「第二のモーセ」は現れなかった、と書いてあります。モーセの後継者としてヨシュアが立てられましたが、ヨシュアはあくまでヨシュアであって「第二のモーセ」という扱いはされなかったようです。「第二の○○」というのは、人が人に対して期待するときに勝手につける称号であって、神様から見ればあくまですべての人が一人ひとり「第一の○○」でしかないのかと思います。
大谷選手だって周りの人が「ベーブ・ルースの再来」と声をかけますが、本人が自分で「僕はベーブ・ルースの再来です」なんて言っているのは聞いたことがありません。もしかしたら人が誰かのことを「第二の○○」とか「○○の再来」とか言うのは少し失礼なのかもしれないな、とか思います。
ところで一方で自分で「私は第二の○○である!」と主張して威張る人たちもいます。これはもう、大抵困った人たちです。代表的なのはカルト教団の指導者です。「私は第二のキリストだ!」とか「私はダビデの生まれ変わりだ!」なんて言って人を惑わすカルトの方々はたくさんいます。もし皆さんが、「私は第二のキリストだ!」なんて主張している人と会ってしまったら、迷わず逃げてくださいね。「あの先生こそ第二のキリストなんです!」なんて周りから持ち上げられている人も同じです。まっとうな牧師さんや神父さんはまちがってもそんなことは言いません。それは教会に限らず、お寺や神社でも同じじゃないかと思います。釈迦如来さんだとか弥勒如来さんだとかを自称している方はちょっと危険かと思います。
「第二の○○」や「○○の再来」は決してその○○を超えることはありません。超えた時にはもはやそんな呼び方はされないからです。一方でそれを自称する方は「私には○○と同じか、それを超える権威があるのだ」と威張ります。他の人を呼称するにせよ、自称するにせよ「第二の○○」「○○の再来」というのは気をつけた方がいいんだろうな、と思わされました。誰でもどんな人でも、神様から見れば「唯一無二のあなた」でしかないんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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