主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨブ記の10章です。よろしくどうぞ。
ヨブ記 10章18節
なぜ、あなたは
私を母の胎から出されたのですか。
私が息絶えていたなら、
だれの目にも留まらなかったでしょう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「どうして俺なんか産んだんだよ!」「産んでくれなんて頼んでないよ!」なんてことを、ご両親に言ってしまったことのある方も少なくないかと思います。僕も中学生くらいの頃に母に言ってしまったことがあります。母さん、ごめんなさい。
ヨブさんはこれを神様に言っています。「もう、こんなひどい目にあわせるくらいなら、私なんてこの世に生み出さなければよかったじゃないですか神様!?」と。
「どうして生まれてきたのか」って、「どうして死ぬのか」と共に、人間にとっては今も昔も根源的な問いの一つです。人類がこの世界に現れてから現代まで、ずーっと問われ続け、そして答えが出ないままの問いです。人類に与えられた最強の難題と言っても過言ではありません。
人は誰も自分で「よし、産まれるぞ!」と決めて、この世に産まれません。気づいた時には既にこの世に産まれていたはずです。「産まれる」ということは「死ぬ」ということと共に、人間のセルフコントロールの範囲外です。人間の人生というのは「産まれる」と「死ぬ」という二つのコントロール不能な事象に挟まれた時間です。制御不能に始まって、制御不能に終わるんです。
「自分の人生は自分のもの」とよく言われますけれど、この意味では自分の人生は自分のものとは言えません。この人生の時間は自分で獲得したものではありませんし、この時間を自分で守ることも究極的にはできません。もちろん病気や事故の可能性を下げることは自分でもできますが、それでも自分がいつ死ぬかということを人間は自分でコントロールできません。
だからこそ人生は、神様から与えられていると言えるんです。しかも自分の意思とは無関係に、強制的に一方的に与えられ、そこに投げ込まれるものです。捉え方によっては極めて理不尽なものです。しかも自分が産まれる環境も自分では選べません。産まれる国も地域も家庭環境も選べません。死に方も、ごく一部の例外を除いては選べません。選んではいけないんです。
この意味で、近頃言われている「親ガチャ」という言葉はある程度は正しいのかと思います。しかし「親のせいだ」と言って親を恨むのは筋違いです。それを言うなら親からすれば「子ガチャ」と言いたいことだってあるかもしれません。ですから強いて言うなら「神様のせいだ」の方が正しいでしょう。
自分が生まれてきた理由は自分ではわかりません。しかし、ここに自分が存在する以上、それは神様が存在させたということであり、ということは、自分が生まれてきた理由は神様は必ず知っています。必ずその理由はあるんです。そして時としてそれを「神様どうして!?」と問うことは悪いことではないと思います。問うということは答えがあるということを前提にした行為です。つまり人生の意味を問うということは、自分の人生に何らかの意味があるということを肯定しているに等しいんです。「なぜ産んだ!?」と悪態をつく方が「どうせ自分には意味なんてないんだ」と虚無的になってしまうよりもずっといいことです。
ですからお子さんに「なぜ産んだ!?」と言われてショックなお父さんお母さん方も、「あーこの子は自分の意味を見出そうともがいているんだな、でも自分になんらかの価値があることはどこかで知っているんだな」と思ってあげてくださると、お互いに心が少し楽になるのじゃないかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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