主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の6章です。よろしくどうぞ。
出エジプト記 6章12節
しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
モーセは「イスラエルの同胞さえちっともまとめきれない私が、ファラオのところに行って交渉したところで無理に決まっています」と神様に訴えました。しかし神様は「いいから行け!」と言います。下は言うことを聞いてくれない、上からは無茶ぶり。モーセは完全に中間管理職の悲哀を味わうことになってしまいました。
しかし、神様の言っていることはたとえ人間の視点からは無茶ぶりに見えたとしても、実は少しも無茶なことは言っていないんです。モーセは「民をまとめてから、きっちり準備をした上でファラオさんと交渉して・・・」と、自分なりの計画を立てていたのだと思います。しかしその計画通りにはちっとも事が運ばないので、神様に対しても「いえいえ、まだ無理です!」と弱気な発言をしたのだと思います。
モーセは神様の命令に対して「自分にはできない」と、その理由も含めて訴えていますが、神様からすれば「そんなの関係ない」ということになります。なぜなら人間は誰しも「自分にはできない」ことだらけです。どんなに簡単で「これなら自分でできる!」と思えることでも、神様がそれを阻めば人間は必ず失敗します。たとえば「コンビニに行って牛乳を買う」という簡単なことでさえ、神様が「そんなことはゆるさん!」と思えば、階段で転んだりとか、急にお腹が痛くなったりとか、牛乳が売り切れだったりとか、いくらでも失敗させられるわけです。反対に言えば「自分にはできない」と思うような難儀に見えることでも神様が「そうするのだ!」と決めれば、必ず成功します。
人間は「できること」と「できないこと」を区別して生きています。もちろんそれは大切なことです。できないことを「できます!」と言うのは良くないことです。普段の生活ではそれでいいですし、そうあるべきとも思います。しかし神様が明確に何かを命じられた時にはその「できること」と「できないこと」の区別を忘れて決断すべきなのだと思います。
自分にできないことでも神様ならできる。すごくシンプルなことなんですが、クリスチャンでさえ忘れてしまうことの多いことだと思います。忘れていなくても、その信念を貫いて実際に行動するというのは、もっとさらに難しいことです。しかし神様が求めているのはそういうことなんだろうなと思います。むしろ神様は「できないこと」をこそ、命じます。「できないこと」を、「君の力ではできないけど、私と一緒にやればできるから、一緒にやろうよ」と言ってくださるのが神様です。それはたとえば、子どもにはちょっと難しいプラモデルを買ってくるお父さんに似ています。「こんなの僕には作れない」と言う子どもに「いやいや、一緒にやったらできるから一緒にやろうぜ」と誘うようなお父さんです。その「ちょっと難しいプラモデル」が親子の仲を深めてくれます。神様と僕たちの関係も同じです。「できないこと」を通して、神様と僕たちは仲を深めるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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