罪も病気も、自覚症状がないのがタチが悪い。【聖書からよもやま話309】

主の御名をあがめます。

新年いきなり「13日の金曜日」がやってきましたが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の19篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 19篇12節

だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。
どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

自分のまちがいに気づくことって、意外と難しいものです。人間は基本的に「自分は正しい」と思って生きています。「自分が正しいとは限らない」と気を付けて生きている人でも、どうしても基本的にはそうなってしまいます。たとえば目に見えるもの、耳に聞こえるもの、それらをいちいち「これは本当は存在しないのかもしれない。本当は別の姿なのかもしれない」と疑いながら生きる人はほとんどいません。時々はそんなことを考えることもあるかもしれませんが、いつもそれをやっていたら疲れ果ててしまいますし何もできません。

罪や考え方についても同じです。自分の間違いに自分で気づくことは思っているよりも難しいことですし、自分のすべてのまちがいについて、すべて気づくことはほぼ不可能です。だからこそ、すべてを知っている神様に祈ることが必要です。クリスチャンはよく「自分は罪人です。たくさんの過ちを犯します」と祈ります。この祈りはとても大切です。しかしこの祈りは自分で気づくことのできた過ちしか射程におさめていません。しかし誰しも自分で気づかない罪を犯しながら生きていますから、これに加えて「自分は自分の罪にさえ気づくことができない者です」という祈りを加えることも、必要なのかと思います。

たまに、「私は罪から解放されたから罪は犯していない」と言ってしまうクリスチャンの方がいたりしますが、そんな方は罪を犯していないのではなく、犯している罪に気づいていないだけです。
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人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。人は自分の姿を自分で見ることができません。鏡を使ったってそこに映るのは左右反対の自分ですし、写真や動画を撮ったって、そこにいるのは過去の自分ですし、そもそもそれは「自分が写っているモニタ」であって自分そのものではありません。

自覚症状によって自分が病気だと気づければ病院に行って治療を始めることができますが、たちが悪いのは自覚症状がなくて自分で気づかない病気です。こんな病気は気づかないままに進行して、気づいた時には大変なことになったりします。罪もこれと同じです。自分で気づける罪よりも、気づかない罪の方がたちが悪いんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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