一般的なイメージとは違い、聖書には性についての記述が多い。夫婦間の営み、売春、姦淫、同性愛。さらには、のぞき、強姦、近親相姦、性生活の喜び、重婚、一夫多妻、同棲、性的欲望まで。
聖書は、修道院で隠遁生活を送る者によって書かれたものではない。聖書を書いたのは、普通に社会生活を送り、家族を持ち、身のまわりにある善も悪も知り、私たちと同じように欲望に苛(さいな)まれながら生きていた人だ。
聖書に描かれている物語や律法、賛美、詩は、決して霊的で美しいものだけではない。むしろ、この堕落した、争いの絶えない世界の真実な姿をあらわにし、そしてジレンマや問題を抱えた人間のリアリティーを浮き彫りにしている。
聖書は性について語っているが、それだけを語っているわけではない。昔は、セックスが存在しないかのごとくに生きようと願った人々もいたが、今はそうではない。聖書は、そのバランスのとれたリアリズムによって、決して性的問題の存在を否定することはしないが、フロイトが好んだような人生についての重要な事柄についても扱っている。
ともかく、聖書には性的記述が数多く存在する。エロスの神によって感覚が麻痺しているかのような現代人が捉えるセックスとは違い、聖書はこの問題について別の角度から示唆を与える。
セックスには秩序がある。人は際限のない激しい欲望におぼれてしまうが、行動には結果が伴う。基準のない歩みの先には、死が待っている。律法は、私たちの自由を奪う泥棒ではない。壊れやすい私たちの生活へのシグナルであって、「つらい経験なしには誰も自分のやりたいことはできない」と声高に訴えている。
間違ったセックスをしてしまった人が得た苦々しい果実について聖書は描写する。そして、喜びと楽しみの手段であるセックスのために指標を設けられた神を紹介する。聖書は、神の教えに従うべき秩序ある世界を明らかにし、性的な世界のリアリティーを提示する。
フリーセックスを助長する世界に社会的抵抗をするのは、人間にとってより良いことを知っておられる秩序ある神が存在するというリアリティーの投影だ。
人間による法律は、神の律法の投影である場合もあれば、そうでない場合もある。人間の習慣も同じだ。文化も、聖書の真実を受け入れることもできれば、否定することも可能なのだ。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」(コヘレト12:13~14)
執筆者:エギナルド・エリオ・ソウザ
牧師、ジャーナリスト。著書に『愛、そして夫婦愛のレッスン』など。
本記事は、ブラジルのキリスト教メディア「ゴスペル・プライム」に掲載された記事より翻訳し、編集しました。