(前編を読む)
神に対して不快に思い、すぐに神を忘れてしまう大きな理由の一つは、私たちの望むように神が自分のもとに来てくださらないからだ。私たちはこう考える。神は偉大で不思議、限界がないのだから、私たちが見間違えることのないような素晴らしさでご自身をお示しになるはずだと。しかし、私たちの祈りは沈黙のかなたへと浮遊していく。礼拝は言葉の泥沼のように感じられる。癒やしを求めようとしたのに、結局は医療費のことを祈っている。愛を求めていたのに、離婚届を出している。
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私たちが必要としている「しるしと不思議」の神はどこへ行ってしまったのだろう。頼りにならない方なのではないか。何度も神を求めて落胆するよりましだろうと、私たちは縦の関係を忘れ、横の関係に注目する。このような混乱があっても、これしか永遠のいのちへの道がないと信じているので、私たちはキリストへの信仰を捨てることなどはしない。ただ、神の臨在について真面目に考えているかは聞かないでほしい。
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もしかすると、栄光の神は他の人には現れるのかもしれない。もしかすると、それは聖書の時代だけだったのかもしれない。もしかすると、昔、はるか昔にはそうだったのかもしれない。しかし現在は、ない。この場所では、ない。この先にも、ない。
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「しるしと不思議」の神はもちろん、その大部分が私たちの想像の産物だ。私たちが神にこうあってほしいと思っているだけなのだ。しかし、神は日々、そして永遠にそうなのではない。
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もちろん、聖書にはしるしも不思議もある。今日でも、神の栄光の力を体験した人はいる。それについて疑問を呈しているのではない。しかしその数は、私たちが思っているほど多くはない。主がよみがえったのを多くの人が自分の目と耳で見、そして聞いたにもかかわらず、まだ疑う者がいたことを思い出してほしい。「(11人の弟子は)イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)
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ルーベンス「天使からパンと水を受け取るエリヤ」。このあと神の静かにささやく声が聞こえる。
つまり、しるしや不思議を、神の電気ショックみたいにとらえているのだ。時に神に対して死んだ状態なので、心臓をよみがえらせるために電気ショックが必要なのだと。しかし、そんなことがあっても、日常が戻ると、神はふだんの状態に戻る。人は神の電気ショックだけで生きるのではない。なぜなら、しるしと不思議の生活では死んでしまうからだ。その代わり、神は安定した心臓の鼓動のように、静かに、さりげなく私たちのもとへ来られる。
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神を求めることの初めの1歩目が、神の臨在に対して私たちがどれだけ不快に思っているかを認めることなら、2歩目は、神が私たちと一緒にいることを選んでくださったと受け入れることだ。私たちは自分の望みが何であるかを知る必要がある。もし奇跡を望むなら、神を見つけることは決してできない。もし神を望むなら、奇跡をあきらめて平凡の中で神を探さなければならない。
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人間と説教者の不適切な言葉の中に
聖書の分かりづらい言葉や慣用句の中に
聖餐のパンとぶどう酒の中に
洗礼の水の中に
祈るために集まった2、3人の中に
毎日のように経験する神秘、分からないこと、不思議なこと、困惑することの中に
それは人生にぎっしりと詰まっている
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In the confusing language and idioms of the Bible.
In the bread and wine of Communion.
In the water of baptism.
In the gathering or two or three come together for prayer.
In the everyday experience of mystery, of not knowing, of wonder, of the perplexing—of which life is chock full.
平凡以外の場所で神を探しても、神は見つからない。なぜなら、その平凡さこそ、神が恵みと真実を持って来てくださる場所なのだから。
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執筆者のマーク・ガリは「クリスチャニティー・トゥデイ」の編集長。
本記事は「クリスチャニティー・トゥデイ」(米国)より翻訳、転載しました。翻訳にあたって、多少の省略をしています。
出典URL:https://www.christianitytoday.com/ct/2019/july-web-only/we-love-and-loathe-god.html
「クリスチャニティー・トゥデイ」(Christianity Today)は、1956年に伝道者ビリー・グラハムと編集長カール・ヘンリーにより創刊された、クリスチャンのための定期刊行物。96年、ウェブサイトが開設されて記事掲載が始められた。雑誌は今、500万以上のクリスチャン指導者に毎月届けられ、オンラインの購読者は1000万に上る。